言葉の森へ 【読書録#1】
可惜夜を覚ますカンタレラのような翠嵐 ── 7月の東京は灼熱だった。時折、太陽のいささか鋭すぎる視線を雲がそっと覆ってくれたりもしたけれど、やはり冬が恋しくなる。
さて、7月は「言葉について考えてみる」というテーマで本を読み進めた。特にずっと気になっていたチョムスキーの主著をいくつか手にとることができて満足の一息。他にもヴィトゲンシュタインやソール・クリプキなど、現代哲学で言葉についての問題を提起してきたと周知されている学者たち(ヴィトゲンシュタインを学者と呼ぶのにはやや躊躇するけれど)が何を考え、どんな問いと闘ったのかを知ることができて感佩の一月だった。
裾野から草木を眺めるように、読んだ本たちをぼんやりと追懐してみよう。
チョムスキーと生成文法
チョムスキーを再読しようと思った所以は、大学で生物言語学という未だ弱齢な学問を学ぶという幸運に恵まれたことがとても大きい。高校生の時に『統辞構造論』を捲ってみたことはあるものの、「何だこれ」という嘆きの他には何も出てこなかった記憶があって、デリダやバルトなどの読書する人々の実存に深く錨を降ろしてくるような言語哲学と比較するとどうも魅力に欠けるという偏見を長らく抱いていた。
幸いなことに偏見は弔われた。
彼の著作を繙く中でもっとも印象に残ったのは、その理論の裏に見え隠れする「普遍性 universality」という謎への鋭い眼差しだった。現代哲学が歩んでいる「帰納法の問題」の果てしない道程がすでに曝け出しているように、経験科学があつかう対象はつねに例外を付随しているのだが、言葉に関してはその限りでない。人は例外なく言葉をあつかうことができる。
この謎に光を投げかけるべく構想されたのがチョムスキーの「生成文法 generative grammer」という偉大なる仮説であり、現今、それを支持する学者たちによって実証的な裏付けが進められている。
今回手にとったのは「チョムスキーの代表作」と目されている『言語と精神』、そして「言語は進化によって出来上がったのではない」「言語はコミュニケーションのための道具ではない」などの自分にとっては斬新な切り口で自然種としての人間の生態を切り開いていく『チョムスキー言語学講義 : 言語はいかにして進化したか』の2冊。どちらも名著に違いないのだが、各章、各節の主題がよりはっきりと示されている後者の方が読みやすいと感じた。
ちなみにチョムスキーはいまだ存命で、97歳になった今でも論文を発表したりと健勝たるご様子の老人である。学者としての業績が抜きん出ていることを別としても人間としてかなり高機能、というか超人のような雰囲気すらまとっている。
ソシュールと共時態
チョムスキーの言語理論は提出されるや否や言語学の斯界に「チョムスキー革命」と呼ばれるセンセーションを巻き起こし、そのゲーム盤をすっかり変貌させてしまったと言われる。なぜこのような「革命」が起こったのか、革命とは旧来の体制に抗する挑戦のことを指すのだから、チョムスキーの理論の革命性の出処を知るためにはチョムスキー以前の言語学が何をしてきたのかを考察しなくてはならない。
というわけで、再び言語学をざっくりと一瞥するために手にとったのが脱構築批評などで名を馳せた文藝評論家のJ・カラーの『ソシュール』だった。言わずと知れた名文家であるカラーの滑らかな文体に乗ってソシュールの思想が一葉、また一葉と丁寧に開かれていくさまが何とも快い。
ソシュールはラングとパロールを分離し、前者を言語学の真の対象として位置付けた。ラングとは、さまざまな記号とその間の差異からなる体系であり、その元素態 Elementalform たる記号は、意味作用を遂行のために常に他の記号との差異の網目の中に象嵌されていなければならない。記号はそれ単体では何も意味することができない。
意味の生成のためには体系としてのラングがなくてはならない ── これがおそらくソシュールの初発の洞察だった。そこで、ソシュールはどのような言語行為のコンテキストからも独立したラングを言語学の対象として仮構し、のちに構造主義と呼ばれることになる究明のための方法論を紡ぎ出すことになった。これが近代言語学の初葉となる。
もし言語記号が差異とは別のものからできていたのだとすれば、単位と文法事実とは混同することはないはずである。…… いついかなる場合にも、互いに規定し合う辞項のこの同じ複雑な均衡がある。いいかえれば、言語は形態であって、実体ではない。
さて、チョムスキーの言語理論が一躍することとなった舞台はこのようなものである。言語行為の種子ともいうことができる話者の心、チョムスキーの言葉を用いれば「精神 Mind」を剥ぎ落とした構造のみに言語学者たちは夢中になっていたのである。
さらに、アメリカ言語学は科学主義という旗印のもとでマテリアリズムを標榜する言語学者たちによって席巻されていたということもあり、たとえ音韻論の範疇で話者が俎上にのぼることがあっても、それはもっぱら機械的に分析されていたに過ぎなかった。トゥウォデルの次のような記述は印象的である。
…… 第一に、手にとって見ることのできない「精神 mind」の言語的はたらきについて、当て推量を権利は私たちにはないし、第二に、このような当て推量からは何か利益を得ることはできない。「精神」の言語的過程などというものは、とにかく観察することができない …… ひどい喩えで言うと、木造りのストーヴの中で火を燃やすようなものだ。
(田中克彦『チョムスキー』岩波書店, 2000年, 40-41頁.)
体系としてのラングは歴史を持たない不変のものとして定義されており、ソシュールはこれを言語の「共時態」と呼ぶ。長らくこの共時態こそが言語学の真の対象と目されてきたのであるから、そのゲーム盤を引っくり返して人間の「精神 Mind」こそが言語学の対象であると宣明したチョムスキーの革命性は想像に難くない。
生成文法は今日?
ちなみに、このようなソシュールの理論に立脚してきた旧来の言語学と、その伝統に対するある種の挑戦としてチョムスキーの言語学とを対置する見方は、私のもっとも敬愛する言語学者にして哲学者である(そう呼ばせていただきたい)田中克彦先生の『チョムスキー』からお借りしたものである。
チョムスキーの主著と合わせてこの本を選書してとても良かった。初めは副読本として座右しようと思っていたのだが、チョムスキーの鍵概念である「精神 Mind」への伏蔵ない真っ当な批判や、その歴史的な文脈に光を当ててこれを抜本的に相対化する視角など、教え諭されることのとても多い一冊だった。
曰く、チョムスキーの「精神 Mind」は意図さえすればどのようにでも解釈でき、その語義はほとんど無尽蔵に変わりうる巧妙なマジックワードであって、その曖昧さの上に拠って立つ「生成文法 generative grammer」の仮説は発見法としては特筆すべきとしても理論とは呼べない擬であると。
この点、エドマンド・リーチが「構造 structure」概念を支柱として建築されたレヴィ=ストロースの理論を「反証不可能である」と指弾しているのと構造的に同型であるような気がする。
反証可能性 falsifiability はカール・ポパー以降、科学を縁どる条件の一つとして今なお人気を博しているけれども、鍵概念を変身させればどんな批判からも逃げることができてしまう理論はたしかに反証不可能なものであって、この意味では科学的とは言い難いものだ。
ただ、田中先生の異論に深く相槌を打ちたくなる一方、チョムスキーの言語理論が言葉の普遍性という現実を見事に記述することに奏功しているという点は疑いないのであって、この対立をどう咀嚼して良いのか未だ自分の中で明晰になってはいない。それだけ言葉という問題は幽邃たるものであるということなのかもしれない。学問は尽きることなく持続していくのである。
コセリウと言語変化
ところで、チョムスキーとは別にソシュールの近代言語学という大敵に挑んだもう一人の闘士がいた。エウジェニオ・コセリウという門外にこそあまり知られていないものの、該博にして鋭いセンスを持ったルーマニアの理論言語学者である。
代表作とされる『言語変化という問題:共時態、通時態、歴史』の中でコセリウはソシュールのラングとパロールという二分法を批判し、この二分法のゆえに旧来の言語学には「言語変化」という普遍的な事象を論じるための言葉と論理が不在であったと喝破している。コセリウは不変の体系のラングにではなく、絶えず変化していく言葉の歴史的な展開にこそ言語の本質があると見定め、人間の創造性はそこから分枝した梢と葉なのだと述べる。
どうやら彼は哲学でも博士号をとっているらしく、なるほど言語を論じている行間には、人間についての考察が通奏低音のように木霊しているという印象をうける。
フランスで花開いた構造主義を通じてソシュール以来の言語学にすっかり馴染んでしまった自分にとってコセリウの理論はとても斬新で、言葉についてのイメージを抜本的に翻されたようなそんな気がする。しかし彼の発見の骨子はまだまだ咀嚼しきれておらず、しばらく反芻しなくてはならないなとも思っている。末長く付き合うことのできる一冊になりそうだ。
何にもまして田中先生の訳文がすばらしい。なんでも、この本を翻訳するまで田中先生はスペイン語を学んだことがなかったというのであるから驚異するほかない。多くの可哀想な訳書がその餌食となっている逐語的に単語を置き直していくだけの自動的な翻訳ではなく、テクストの酵母となる文化や歴史のコンテクストを眺望するような視点から、その阿吽に生動している一息一息の表現を巧みに掬い上げていくような田中先生の訳業は、何よりもまず訳者自身がこの本とその著者を愛していたことを物語っているような気がした。自分もこんな翻訳ができるようになりたいものだ。
クリプキと規則のパラドックス
テーマは変わる。
前世紀、言葉についてもっとも卓越した論考をしたためた哲学者の一人にヴィトゲンシュタインを挙げることができる。彼の一世に渡る狂人ぶりについてはすでに多くの人の知るところであるが、さすが狂気に囚われた人は思考までも独創的である。
ヴィトゲンシュタインの遺稿となったコーパスは『哲学探究 Philosophische Untersuchungen』として後年に上梓されることとなり、そこで提起されている問題の一つに「規則のパラドックス」なるものが存在する。このパラドックスはヴィトゲンシュタインその人というよりも、現代論理学の鬼子たるソール・クリプキによってより明晰に言語化され、論理的なフレームを与えられたものである。
ヴィトゲンシュタインは次のようなことを言っている。
われわれのパラドックスはこうであった。すなわち、規則は行為の仕方を決定できない。なぜならば、どのような行為の仕方も規則と一致させることができるからである。
規則は、ある行為がそれに従っているかそれとも逸脱しているかを見極めるための境界線のようなものである。けれども、その境界線は変わってしまうことがある。さっきまで規則から逸脱しているとみなされていた行為が、この瞬間からは規則に従っているとみなされることもあるかもしれない。とすれば、どのような行為でもある意味では規則と一致させることができる ……?
このような問題をクリプキは「プラス算」と「クワス算」という非常にユニークで魅力的な形に変奏し、それへの応答を試みようとする。
ちなみに、シニフィエとシニフィアンとの結びつきは恣意的なものでしかないため、もしどのような行為でも規則と一致させることができるとすれば、言葉の意味なるものは霧散してしまうことになる。仮に「記号 a で対象 å を意味する」という規則 A があり、私はそれに従って言葉を用いてきたと自分では考えていても、実は規則 A は私が信じていたようなものではなく本当は「記号 a は昨日(2026年8月4日)までは対象 å を、今日(8月5日)からは ã を意味する」というものだったということが何の前触れもなく判明するかもしれない。ともすれば、私の言語行為は今や逸脱的なものとなってしまう。
このパラドックスにどのような答えがありうるだろうか。クリプキの『ヴィトゲンシュタインのパラドックス』、そして飯田隆先生の『意味と規則のパラドックス』では二人の巨人それぞれの呼応を垣間見ることができる。
Off Topic : 不在とジェンダー
ここからは「言葉について考えてみる」というテーマからはやや遠ざかった本を。自分が一月に一つ主題を掲げて本を選書するのは、次から次へと本を多読していくのではなく、一貫した目的意識のある息の長い思考を習慣化するためである。とはいえ、一つの領域に長居しすぎるのも自分の好みではないため、たまに息抜きとして別のトピックに関係する本も捲ることにしている。
今月選んだのは中島義道先生の『不在の哲学』、そしてイヴァン・イリイチの『ジェンダー 男と女の世界』の二冊。
カント哲学の方法論や鍵概念をすっかり換骨奪胎し、独自の形而上学へと編み上げていく中島先生の手つきは相変わらず冴えていて、自分の哲学がこうあるべきだとは微塵も思わないけれども、目を引かれるものがある。「唯現在主義」ともいうべきユニークな時間論の一書である。
イリイチがこの本の中で用いている「ジェンダー」という語の意味は性的区別のための指標という狭義にではなく、むしろその語源であるギリシャ語の「γένος : 類」に近く、なるほど現代社会の問題をかくも眺望的な視点から見下ろすことができるのかと新鮮な気持ちになった。ヴァナキュラーナな分類の眼鏡をかけて世界を生き抜いていく人間の生の一つの様態としての「ジェンダー」という卓見には膝を打つ思いだった。彼の歴史学者としての博捜が遺憾なく血肉化した一冊だと思う。
なんとはなしに「言葉について考えてみる」というテーマではじまった7月の読書は再読と新たな出会いとが織り合わさった僥倖に恵まれた。言語論的転回の後で思考する一人の哲学徒として、言葉についてもう一度学び直すことができてよかったと思う。満足の一入。
選書目録
Noam Chomsky, Language and Mind, ed. 3rd., Cambridge University Press, 2006. 町田健 訳『言語と精神』河出書房新社, 2011年.
Robert C. Berwick et Noam Chomsky, Why only us: Language and Evolution, MIT Press, 2015. 渡会圭子 訳『チョムスキー言語学講義 : 言語はいかにして進化したか』筑摩書房, 2017年.
田中克彦『チョムスキー』岩波書店, 2000年.
Jonathan Culler, Saussure, Glasgow, 1976. 川本茂雄 訳『ソシュール』岩波書店, 2002年.
Saul A Kripke, Wittgenstein on rules and private language, Oxford, 1981. 黒崎宏 訳『ウィトゲンシュタインのパラドックス ── 規則・私的言語・他人の心』筑摩書房, 2022年.
飯田隆『意味と規則のパラドックス』筑摩書房, 2016年.
Eugenio Coseriu, SINCRONÍA, DIACRONÍA E HISTORIA: El Problema del Cambio Lingúístico, Madrid, 1978. 田中克彦 訳『言語変化という問題 : 共時態・通時態・歴史』
Ivan Illich, Gender, New York, 1973. 玉野井芳郎 訳『ジェンダー 男と女の世界』岩波書店, 1984年.
中島義道『不在の哲学』筑摩書房, 2016年.
