『夏の終わりに、君を待つ』第2話 十年前の秘密
「父親が倒れたんだ」
亮の言葉が。
夕暮れのホームに落ちた。
玲奈は、すぐには返事をしなかった。
十年前。
自分が待っていたのは、午後六時。
海へ向かう電車だった。
けれど。
亮には、別の時間が始まっていた。
「……どうして、連絡してくれなかったの?」
玲奈の声は。
思っていたより小さかった。
「何度も電話しようとした」
「じゃあ、どうして?」
亮は。
ポケットから古い携帯電話を取り出した。
「父親が倒れたあと、病院へ向かった」
「うん」
「その途中で、携帯を落とした」
玲奈は。
黙っている。
「病院に着いたときには、父は意識がなかった」
「……」
「そのまま、亡くなった」
玲奈の表情が。
少し変わった。
「知らなかった」
「言わなかったから」
「どうして?」
亮は。
しばらく駅の線路を見つめた。
「君に会ったら、全部話さなきゃいけないと思った」
「それの何が悪いの?」
「怖かったんだ」
「何が?」
「君に、重荷だと思われるのが」
玲奈は。
思わず笑った。
「馬鹿じゃないの?」
「うん」
「十年間も?」
「……うん」
玲奈は。
目を伏せた。
怒りたいのに。
怒りきれなかった。
◇
二人は。
駅前の小さな喫茶店に入った。
窓際の席。
十年前にも。
二人で座ったことがある店だった。
「まだあったんだ」
玲奈が言う。
「僕も驚いた」
「変わらないね」
「僕たちも、少しは変わった」
「かなりね」
二人とも。
少し笑った。
けれど。
笑顔は長く続かなかった。
亮が。
鞄から封筒を取り出した。
「これを渡したかった」
「何?」
「十年前に書いた手紙」
玲奈は。
封筒を受け取った。
宛名は。
自分の名前。
筆跡も。
今朝届いたものと同じだった。
「どうして今?」
「去年、実家を整理していて見つけた」
「十年前に書いたの?」
「君に渡すつもりだった」
「でも、渡さなかった」
「……うん」
玲奈は。
封を開けた。
便箋には。
若い頃の亮の文字が並んでいた。
『玲奈へ。』
『今日、君に伝えたいことがある。』
そこまで読んで。
玲奈の指が止まった。
その下には。
一行だけ。
強く書き直した跡がある。
『僕は、君と一緒にいたい。』
玲奈は。
息を止めた。
十年前。
自分が聞きたかった言葉だった。
けれど。
その続きを読んだ瞬間。
胸が痛んだ。
『でも、今の僕には、君を幸せにできる自信がない。』
その先には。
父親のこと。
家業のこと。
大学を辞める決断。
そして。
玲奈には何も告げず、故郷へ戻ること。
すべてが書かれていた。
最後の一文。
『いつか、僕が自分の人生を自分で選べるようになったら、もう一度君に会いたい。』
玲奈は。
便箋を閉じた。
「十年間、待ってたの?」
「待っていたわけじゃない」
亮は。
静かに答えた。
「忘れようとしてた」
「……」
「仕事をして、家を継いで、父の残したものを整理して」
「そうしているうちに、十年経った」
玲奈は。
窓の外を見る。
夏の終わりの空。
あの日と同じ色だった。
◇
「じゃあ、今は?」
玲奈が聞く。
「今?」
「今のあなたは、自分の人生を選べるの?」
亮は。
少し考えた。
「やっと」
「何を選んだの?」
亮は。
玲奈を見る。
「東京に戻ってきた」
「仕事は?」
「辞めた」
「家業は?」
「弟に任せた」
玲奈は。
驚いた。
「そこまでして?」
「そこまでして、じゃない」
亮は。
少し笑った。
「やっと、自分で決めたんだ」
玲奈は。
返事をしなかった。
十年前。
亮は。
自分の人生を選べなかった。
そして。
玲奈も。
あの日からずっと。
「捨てられた」という記憶を抱えて生きてきた。
二人とも。
別々の場所で。
同じ夏に取り残されていたのかもしれない。
◇
店を出る。
空には。
細い雲が流れていた。
「玲奈」
「何?」
「もう一度、海に行かない?」
玲奈は。
足を止めた。
十年前。
叶わなかった約束。
十年後。
同じ言葉。
「……今から?」
「うん」
「もう暗くなるよ」
「だからいいんじゃない?」
玲奈は。
しばらく考えた。
そして。
笑った。
「いいよ」
二人は。
駅へ向かった。
◇
海へ向かう電車。
窓の外を。
夏の終わりの景色が流れていく。
二人の間に。
昔のような沈黙が戻っていた。
でも。
今度は。
苦しくなかった。
玲奈が。
ふと聞く。
「亮」
「ん?」
「もし、十年前に全部話してくれていたら」
「うん」
「私、待ってたと思う」
亮は。
窓の外を見たまま。
小さく笑った。
「知ってる」
「……どうして?」
「だから、言えなかった」
玲奈は。
少しだけ彼を睨んだ。
「やっぱり、馬鹿」
「そうだね」
二人で笑う。
電車が。
海沿いに出る。
夕暮れが。
水平線に溶けていく。
玲奈は。
窓に映った自分を見る。
十年前の自分と。
少しだけ重なった。
けれど。
もう、あの頃とは違う。
失った十年を。
取り戻すことはできない。
それでも。
これからの時間なら。
選ぶことができる。
◇
駅に着く。
二人は。
海岸まで歩いた。
波の音がする。
亮が。
古い切符を取り出した。
十年前のものだった。
「まだ持ってたの?」
「捨てられなかった」
亮は。
切符を玲奈に渡した。
「今度は、これを持って帰って」
「私が?」
「うん」
玲奈は。
切符を受け取った。
そして。
裏側を見る。
そこには。
十年前にはなかった文字が書かれていた。
『今度は、途中で帰らない。』
玲奈は。
顔を上げた。
亮が。
まっすぐ自分を見ている。
「玲奈」
「うん」
「十年遅れたけど」
亮は。
少しだけ息を吸った。
「もう一度、君に好きだと言ってもいい?」
波の音が。
二人の間を通り過ぎた。
玲奈は。
すぐには答えなかった。
ただ。
手の中の古い切符を。
そっと握りしめた。
そして。
静かに笑った。
「十年前の返事を、まだしてないから」
亮の目が。
わずかに揺れる。
「……それは?」
玲奈は。
海を見る。
夏の最後の夕日が。
水平線に沈もうとしていた。
「最終話まで、待って」
――第2話・終
