編集後記:人生におけるアンチセンスとリズムについて
今週のポッドキャストでは、先週に引き続き、千葉雅也氏の「センスの哲学」とデヴィッド・ボウイを扱いました。そこで話せなかった内容も含めた編集後記です。
自分も文章を書いたり、ポッドキャストを作ったりと、細々ながら創作で副業をやっていこうという意思があるのだが、実際の本業は、会社員として組織の仕組みづくりをやったり、マーケティング施策を考えたりというのが、中心だ。つまり、創作というよりは、むしろトンカチ仕事の方が多かったりする。
このトンカチ仕事というのは、村上春樹が「職業としての小説家」で語った概念で、彼の場合、小説の推敲作業にこそクリエイティブが宿るのだ、ぐらいのことを書いている。
つまり、一度書いた文章を、読み直して、ブラッシュアップすること。これ自体は、地味な作業なのだが、鍛冶師が金具をトンカチで叩くように文章を叩く。これによって、強度とリズムを獲得する。そして、それを徹底してやることが村上春樹の独自性になっている。
ちなみに、これと近いことを言ってるのは三島由紀夫である。彼の場合は、肉体を鍛えること=文体を鍛えることを並列で語っている。どちらに共通しているのは、ある種のストイシズムだろう。春樹はランニング、三島はボディビル。両者は、創作における規律の重要性を誰よりも理解していた。
今回、千葉雅也とデヴィッド・ボウイを取り上げたが、この両者も一見センスの話をしているようで、このトンカチ仕事をどうやるかに力点を置いているように思う。千葉雅也の場合は、物事をリズムとして捉えることで、センスが養われると繰り返し言及する。ここで大事なのは、センスのあるコンテンツに触れることではなく、見方そのものをどう獲得するかに力点が置かれていることだ。
今の時代は、あらゆるコンテンツが溢れている。これが流行っている、次にこれがバズるというように、情報の洪水が発生している状態だ。
この洪水に身を委ねることに、俺は反対しない。むしろ、若い頃は、ドパガキよろしく、何でもかんでもやってみる時期が必要だ。
そう、わたしもかつてドパガキだった。
しかし、ある程度の年齢を重ね、創作や仕事を続けていこうとなった時、このセンスが重要になってくる。その時に我々が向き合うべきなのが、千葉雅也のいう「アンチセンス」だ。
アンチセンスは、単なる「センスの反対」ではない。流行や評価とは別のところで、自分の人生を通して勝手に滲み出てしまう偏りや美学のことである。
俺の場合、「愛と暴力」という相反するテーマが、自分自身のアンチセンスになっていると自覚している。人が人を傷つけながら、それでもなお愛そうとしてしまう。その矛盾に昔から惹かれてしまう。
自分が北野武や韓国ノアールに惹かれてしまうのもこれだし、小説でも村上春樹、平野啓一郎、カズオイシグロあたりにもこれと近い感覚を覚える。
そして、このアンチセンスは自分自身の内面を深く掘り下げなければ、到達できない源泉のようなものだと思う。言語化がそれほど難しくないのは、ある対象を、論理で整理して、それを言葉で浮かび上がらせる手法だからだ。訓練を積めば、誰もやれるようになる。しかし、アンチセンスは、その真逆だ。綺麗にやろうとするほど、むしろ、その感覚は遠のいていく。
土門蘭は、ほんとうのことを書く練習で、誰にも見せない日記を書くことが、「ほんとうのこと」に繋がると語っているが、内面のどうしようもなさを少しずつ形にしていくと、そこに「アンチセンス」の原石が見えてくる。これが私たちにとっての「ほんとうのこと」なのだ。世の中にある数字やニーズではない。いびつながらも手触りのある「アンチセンス」が、そこには眠っている。

そこにたどり着くには、見方を養うこと、そしてトンカチ仕事を続けられることが土台になる。読む、書く、聞く、話す。これはあらゆる仕事や創作の基本である。
センスは、天才だけのものではない。毎日のトンカチ仕事の中で、自分だけのリズムを少しずつ見つけていくものなのだろう。
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