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なぜヒトラーは、ワーグナーの音楽を愛したのか?

アドルフ・ヒトラーが最も深く愛した作曲家のひとりが、リヒャルト・ワーグナーでした。

しかし、なぜワーグナーだったのでしょうか。

ベートーヴェンでも、バッハでも、モーツァルトでもない。ヒトラーは少年時代からワーグナーに強く惹かれ、その音楽はやがてナチス・ドイツの政治的な演出とも結びついていきます。

その関係をたどっていくと、一人の少年が音楽に魅了されたところから始まり、その人生の最後までワーグナーの音楽がついて回ったという、不思議な構図が見えてきます。

12歳で出会った《ローエングリン》

ヒトラーがワーグナーに出会ったのは、まだ少年だったころでした。

12歳のころ、リンツの劇場でワーグナーの歌劇《ローエングリン》を観たとされています。白鳥に引かれた舟に乗って現れる謎の騎士ローエングリン。中世の伝説を題材にした壮大な舞台と音楽は、少年ヒトラーに強烈な印象を与えました。

後年、ヒトラー自身も若いころのワーグナーへの熱狂を回想しています。

重要なのは、この時点ではまだヒトラーは政治家ではなかったということです。

つまり、最初にあったのは政治思想ではなく、音楽と物語への圧倒的な憧れだったのです。

《リエンツィ》が見せた「群衆を動かす英雄」

さらに有名なのが、若きヒトラーとワーグナーの歌劇《リエンツィ》をめぐる逸話です。

主人公リエンツィは、腐敗した権力に立ち向かい、民衆を率いてローマを変えようとする人物です。

青年時代の友人アウグスト・クビツェクの回想によれば、ヒトラーはこの作品を観て強烈な感銘を受け、群衆を率いる指導者の姿に自らを重ねたといいます。

ただし、「この夜に政治家になることを決意した」という話については、後年の回想に依存する部分が大きく、史実として断定することはできません。

それでも、《リエンツィ》の物語が若いヒトラーの想像力を強く刺激した可能性は高いでしょう。

ワーグナーが描いた「ドイツ」の世界

ヒトラーが惹かれたのは、音の迫力だけではありません。

ワーグナーの作品には、英雄、運命、救済、民族、神話といった巨大なテーマが繰り返し登場します。

《ニーベルングの指環》では北欧・ゲルマン神話の神々と英雄が描かれ、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》ではドイツの伝統と芸術が前面に押し出されます。

さらにワーグナー自身は、反ユダヤ主義的な文章も残しました。

1850年に発表した「音楽におけるユダヤ性」は、その代表的なものです。

もちろん、ここで注意しなければならないことがあります。

ワーグナーは1883年に亡くなっています。ヒトラーが生まれたのは1889年です。

つまり、ワーグナー自身がナチズムを支持したわけではありません。

しかし、ワーグナーの死後、その作品や思想の一部は「ドイツ民族の偉大さ」を象徴するものとして読み替えられ、ナチスに利用されていきました。

音楽は政治の「舞台装置」になった

ヒトラーが権力を握ると、ワーグナーの音楽は個人的な愛好を超えていきます。

とりわけ《ニュルンベルクのマイスタージンガー》は重要でした。

ナチス時代、この作品は「ドイツ文化」を象徴するものとして扱われ、1938年までニュルンベルク党大会の開催に合わせて繰り返し上演されました。

また、ヒトラーはワーグナー家とも親しく、バイロイト音楽祭にも深く関わっていきます。ワーグナーの息子ジークフリートの妻ヴィニフレート・ワーグナーはヒトラーの支持者となり、両者は非常に近い関係を築きました。

巨大な舞台、照明、旗、音楽、群衆。

ナチスの党大会が一種の巨大な「劇場」のように演出されたことを考えると、音楽・演劇・舞台を一体化させようとしたワーグナーの芸術世界と、ヒトラーの政治的演出には奇妙な共通点が見えてきます。

最後にも流れたワーグナー

1945年4月30日、ヒトラーはベルリンの総統地下壕で自殺しました。

翌5月1日、ドイツのラジオはその死を国民に伝えます。

その死亡発表の前後には、ワーグナー《神々の黄昏》の音楽が放送され、「ジークフリートの葬送音楽」が流れたとする記録も残されています。

《神々の黄昏》は、英雄ジークフリートの死、そして一つの世界の崩壊を描いた作品です。

12歳の少年が《ローエングリン》によってワーグナーに魅了され、そして44年後、その死を告げる放送にもワーグナーが流れた。

あまりにも象徴的な終わり方です。

なぜヒトラーは、ワーグナーを愛したのか

答えは一つではありません。

壮大な音楽。英雄の物語。ゲルマン神話。ドイツ文化への憧れ。そして後には、ワーグナーの思想の一部と自らの政治思想との共鳴。

しかし、おそらく最初にヒトラーを捉えたのは思想ではありませんでした。

一人の少年が、舞台の上に現れた巨大な世界に圧倒された。

そこから始まったワーグナーへの熱狂は、やがて政治と結びつき、音楽は権力を演出する道具へと変わっていきます。

音楽そのものに罪があるわけではありません。

けれども、音楽が人間の感情を強く動かす力を持っているからこそ、ときに政治はその力を利用します。

ヒトラーとワーグナーの関係は、芸術と政治が結びついたとき何が起こり得るのかを、今も私たちに問いかけているのかもしれません。


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