ラフマニノフは、どんな父親だったのか?──2人の娘が知っていた素顔
セルゲイ・ラフマニノフの写真を見ると、いつも少し近寄りがたい。
長身で、ほとんど笑わず、厳しい表情でカメラを見つめている。
《ピアノ協奏曲第2番》《ヴォカリーズ》《鐘》――その音楽にも、深い憂愁や孤独を感じることがあります。
けれど、そんなラフマニノフにも、まったく別の顔がありました。
2人の娘の父親としての顔です。
長女イリーナは1903年、次女タチアナは1907年に生まれました。
残された手紙を読んでいると、そこにいるのは「20世紀を代表する大作曲家」というより、娘が熱を出せば心配し、体重が増えれば安心する、ごく普通の父親でした。
そしてその姿を知るには、ラフマニノフ自身の子ども時代まで遡る必要があります。
幸福な子ども時代を失った少年
ラフマニノフの幼少期は、決して平穏なものではありませんでした。
父は借金を重ね、一家は経済的に追い詰められていきます。両親の間では争いが絶えず、さらに姉たちの死という悲劇も重なりました。
やがて両親の関係は壊れ、少年セルゲイはモスクワへ移り、ピアノ教師ニコライ・ズヴェレフのもとで生活するようになります。
ロシア国立音楽博物館は、この少年時代について触れたうえで、後にラフマニノフが自分の家庭を築くことを何より重要なこととして考えていたと紹介しています。
1902年、ラフマニノフはナターリヤ・サティナと結婚。
翌1903年にイリーナ、1907年にはタチアナが生まれました。
ここから、ラフマニノフの「父親としての人生」が始まります。
娘の体重を気にするラフマニノフ
1904年7月。
まだ幼いイリーナの体調が思わしくなかったのでしょう。
ラフマニノフは友人で音楽理論家のニコライ・モロゾフへ、娘の様子を細かく書き送っています。
医師の助言で体温を測るのをやめ、代わりに体重を測ることにした。
すると、
毎週0.5ポンドずつ体重が増えている。
そのことを「数学的に正確に」確認できたので、深刻な病気ではないだろうと安心した――そんな内容です。
そして最後には、ここ数週間でようやく自分も落ち着きを取り戻した、と書いています。
なんだか意外ではないでしょうか。
あのラフマニノフが、娘の体重を毎週気にしている。
そして4年後。
今度は1歳になったタチアナについて、同じモロゾフへ、
まだ歩かないけれど、ハイハイはする。
まだ言葉は話さず、いろいろな調子で「ブー!」と言うだけだ――。
そんな近況を書いています。
大作曲家の手紙とは思えないほど、普通です。
けれど、その「普通さ」こそが面白い。
舞台では世界中の聴衆を圧倒するピアニスト。
家に帰れば、娘が歩いたか、しゃべったか、体重が増えたかを気にしている父親でした。

娘たちのそばには、いつも音楽があった
もちろんラフマニノフ家ですから、娘たちの生活には音楽がありました。
母ナターリヤもモスクワ音楽院を卒業したピアニストでした。
ロシア国立音楽博物館には、ラフマニノフ家で使われていた子ども向けの楽譜が現在も残されています。
子守歌、童謡、ロシア民謡。
中には「子猫と小鳥」「春」「カッコウとロバ」「私の馬」といった、いかにも子どもが喜びそうな題名の曲もありました。
ラフマニノフ自身は子どものための作品をほとんど書きませんでした。
それでも家庭には、子どもたちが音楽と自然に出会える環境があったのです。
娘が母になり、ラフマニノフは祖父になった
やがて2人の娘も成長します。
長女イリーナは1924年、ピョートル・ヴォルコンスキー公爵と結婚しました。
ところが翌1925年、夫が急死します。
そのときイリーナは妊娠中でした。
夫を失った約3週間後、娘ソフィアが誕生します。
ラフマニノフは祖父になりました。
残された1925年の手紙からは、生まれたばかりの孫娘を毎日のように訪ね、乳母車で散歩させることまで楽しみにしていた様子が伝わっています。今回集めた資料でも、この手紙の存在まで確認できました。
そして同じ1925年、ラフマニノフはパリに音楽出版社を設立します。
名前はTAIR(タイール)。
TAtianaとIRina。
2人の娘の名前を組み合わせた名称でした。
小さな事実ですが、私はここに父親ラフマニノフらしさを感じます。

戦争が、父と娘を引き離した
しかし晩年、家族は再び歴史に翻弄されます。
第二次世界大戦です。
次女タチアナは夫ボリス・コニュス、息子サーシャとともにヨーロッパにいました。
一方、ラフマニノフはアメリカへ。
戦争によって大西洋を挟んだ家族の往来や連絡は困難になっていきます。
そして1943年3月28日。
ラフマニノフはカリフォルニアで亡くなります。
70歳の誕生日を迎える、わずか数日前でした。
タチアナとの再会は叶いませんでした。
その翌年の1944年。
長女イリーナが妹タチアナへ送った葉書には、晩年の父について胸を打つことが書かれています。
父は、もうタチアナには会えないのではないかと感じていた。
そして、
タチアナと孫サーシャの写真を、いつも持ち歩いていた。
タチアナから届いた最後期の手紙の一つは、ニューヨークでリサイタルを行う日の朝に届きました。
父はとても喜び、「これは良い兆しだ」と受け取った。
その日の演奏は、イリーナによれば父の最も美しいリサイタルの一つになったといいます。
自分が得られなかったものを、娘たちへ
ラフマニノフは、どんな父親だったのでしょう。
豪快に愛情を表現する父親だった、とは言い切れないでしょう。
けれど残されたものを見ると、その答えは少しずつ浮かび上がってきます。
幼い娘が病気になれば、毎週の体重まで気にした。
成長すれば、娘たちの名前を出版社につけた。
初孫が生まれれば毎日のように会いに行った。
そして戦争によって会えなくなった娘と孫の写真を、晩年まで身近に置いていた。
ロシア国立音楽博物館は、ラフマニノフが娘たちに、自分自身がかつて失った「幸福な子どもの世界」を作ることができた、という趣旨の言葉で資料紹介を締めくくっています。
それを知ってから彼の家族写真を見ると、少し違って見えます。
いつものように、ラフマニノフはほとんど笑っていません。
けれど、そのそばには娘がいる。
もしかするとラフマニノフが娘たちに与えようとしたものは、自分が少年時代に失ってしまったものだったのかもしれません。
帰ることのできる家。
安心できる家族。
そして、父親がそばにいる子ども時代。
あの深い哀しみをたたえた音楽を書いた人にも、こんな日常がありました。
セルゲイ・ラフマニノフ。
大作曲家である前に、イリーナとタチアナという2人の娘を心配し続けた、一人の父親でもあったのです。
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