⸻強い断定は、強い説明を必要とする⸻424日
裁判では、ときに将来の法律関係にまで触れるような表現が現れることがある。
例えば、
「○○が死亡ねば、△△に」
というような記載である。
もちろん、裁判所が法的評価を示すこと自体は珍しいことではない。
しかし、ここで一つ疑問が生まれる。
なぜ、そのような強い断定に至ったのか。
その根拠は何だったのか。
どの事実認定と、どの法的構成によって、その結論へ接続されたのか。
もし、その説明が十分に示されなければ、当事者だけでなく第三者も、その判断過程を追うことができない。
今件では、契約及び不正取得問題を争点として民事訴訟が提起され、それとは別に遺産分割調停が行われた。
しかし、調停で示されたのは、訴訟で中心的に争われた契約関係ではなく、
「遺言どおりに処理すべきである。」
「遺留分は支払われている。」
という説明であった。
ここで生じる疑問は、その結論自体ではない。
その断言は、どのような法的構成によって導かれたのだろうか。
養子縁組の法的効果を前提としていたのか。
〇〇の固有財産という評価を前提としていたのか。
しかし、もし〇〇の固有財産であるならば、なぜ兄弟である△△へ承継されるという結論になるのだろうか。
これらを接続する理由が判決や手続から読み取れない場合、第三者はその判断形成過程を再現することができない。
裁判の正当性は、結論だけではなく、結論へ至る論理が第三者にも検証可能であることによって支えられる。
さらに、その後の別の手続で同じ前提が必ずしも語られない場合、人はさらに疑問を抱くことになる。
「あの結論は、どのような理由によって導かれたのだろうか。」
「なぜ、あのときは断定したのだろう。」
「その前提は、どのような理由で置かれたのだろう。」
強い断定は、それに見合うだけの説明責任を伴う。
説明可能性を失った断定は、当事者だけでなく第三者にとっても、その判断形成過程を再現できないものとなる。
それが、法の説明可能性であり、裁判の可視性ではないだろうか。
裁判の正当性は、結論だけでは支えられない。
その結論へ至る過程が説明され、検証可能であることによって初めて、人は制度を理解し、信頼することができる。
だからこそ、私は「結論」ではなく、「結論に至る過程」に目を向けたい。
法の説明可能性とは、結論を正当化することではない。
その結論へ至る論理を、当事者だけでなく第三者にも再現可能な形で示すことにある。
それが、裁判の可視性であり、制度への信頼を支える条件ではないだろうか。
