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「家族問題化による判断回避構造」⸻367日



私は、裁判の途中で、父をこの訴訟構造から外した。
上告中で、まだ「確定していない」事件の中に、
父を閉じ込め続けるのは不合理だと思ったからだ。

この問題の核心は、
家族の感情ではなく、
財産の帰属、債務の処理、管理構造という
“制度の問題”にあった。

だから私は、
「父個人や親戚間に関する部分については、
家族内部の調整として切り分けられる余地がある」

そう考え、私は父を裁判から外し、
調停という別の場に移した。
ところが、そこで起きたことは奇妙だった。

調停はこう言った。
   ・遺言通りにしろ
   ・裁判の結論は出ている
   ・相続財産はない
ここで、構造がねじれる。

私は上告している。
判決は、法的には「まだ確定していない」。

それなのに、調停は
• 表では「家族の問題だ」と言いながら
• 実務では「高裁判決は確定しているもの」として扱い
• その前提で「遺言通りにしろ」と言った

つまり、

「これは法の問題ではない」と言いながら、
「法的に確定した結論がある」ことを前提に処理した

という矛盾した振る舞いを、
制度自身が露呈させてしまった。

もし本当に「家族間の問題」なら、
裁判の結論など参照せず、
当事者同士の調整で解決できなければならない。

けれど現実には、
• 判決を“既成事実”として前提にし
• 遺言という法的効力をそのまま適用し
• 財産や債務の構造には一切触れず
• それでいて「これは家族の問題だ」と言った

その瞬間、
この事件が
• 感情のもつれではなく
• 法的帰属と効力を前提にしなければ処理できない
• 本質的に「法の問題」だった

ということを、
調停そのものが証明してしまった。

家族の問題だと言いながら、
法を前提にしなければ動かせない。

法の問題だと認めれば、
財産の帰属や管理構造について、
正面から判断しなければならない。

けれど、
「これは家族の問題だから裁けない」という言葉は、
実際には何ひとつ解決していなかった。

何ひとつ解決していないことだけは、
制度自身が示してしまったのだと思う。

この事件は、
家族の問題だったのではない。

“家族”という言葉で包まなければ、
制度が自分自身と向き合わなければならなかった、
そういう問題だったのだ。

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