「国家は、当事者の問いに答えないまま、その当事者を拘束できるのか。」427日
# 裁判は、誰の問いに答えているのか
私は、この問いを何度も考えてきた。
最初は契約の問題だと思った。
次は相続の問題だと思った。
養子縁組の問題なのかとも考えた。
しかし、考え続けるうちに、私の疑問は全く別の場所へたどり着いた。
私は、本当に知りたかったのは、
「裁判とは誰の問いに答える制度なのか。」
ということだった。
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裁判とは、本来、当事者が問題を提起する制度である。
「こういう事実があった。」
「だから法律上こういう権利がある。」
「だから救済してほしい。」
これが訴訟の出発点である。
つまり、裁判所が判断する対象は、当事者が提起した争点である。
ところが、もし判決を読んでも、
「自分が提起した争点に対して、どこで判断したのか。」
が分からなかったらどうなるだろうか。
当事者はこう思う。
「私は何について裁判を受けたのだろう。」
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これは負けたことへの不満ではない。
勝つことだけが裁判の目的ではない。
裁判とは、
「自分の問いに対して国家がどう答えたのか。」
を知る制度でもある。
だからこそ、人は敗訴しても、その理由を理解できれば納得できる場合がある。
しかし、
自分が提起した争点が判決理由から読み取れず、
別の理由だけで結論が導かれたように見えるなら、
当事者は何に反論すればよいのか分からなくなる。
負けた理由ではない。
何について負けたのかが分からない。
この状態は、裁判の正当性そのものに関わる。
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裁判所は国家権力である。
国家は判決によって個人を拘束する。
財産権を失わせることもある。
契約を否定することもある。
身分関係にも影響を与える。
そのような強い権限を持つ以上、
国家は、その拘束がなぜ正当なのかを説明する責任を負う。
その説明とは、
単に結論を書くことではない。
当事者が提起した問いに応答することである。
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私はここで一つの疑問を持った。
もし、
当事者がAという争点を提起したにもかかわらず、
判決ではBという理由だけで結論が導かれ、
Aについてどのように判断したのかが読み取れないなら、
その裁判は、
一体何を審理したのだろうか。
もちろん、裁判所には独自の法的判断がある。
当事者の主張をそのまま採用する義務はない。
しかし、
何を理由として採用しなかったのか。
これが見えなければ、
当事者は反論する対象すら失ってしまう。
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ここで問題になるのは、
判決が正しかったかではない。
国家は、
当事者の問いに答えないまま、その当事者を拘束してよいのか。
ということである。
私は、この問いこそが裁判制度の本質だと思う。
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これは日本だけの問題ではない。
世界中の法哲学で議論され続けている。
国家が個人を拘束する以上、
その拘束は理解可能な理由によって正当化されなければならない。
これを「法の支配(Rule of Law)」という。
法の支配とは、
国家が法律に従うことだけではない。
国家自身が、
理由によって権力を正当化することでもある。
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私は、裁判を受けて初めて気付いた。
裁判とは、
勝敗だけを決める制度ではない。
本来は、
当事者の問いに答える制度である。
もしその問いへの応答が見えなくなったなら、
人は判決そのものではなく、
裁判という制度そのものに疑問を抱き始める。
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だから私の問いは、最終的に一つになった。
裁判とは、誰の問いに答える制度なのか。
国家は、
個人を拘束する以上、
その個人が提起した争点に応答する義務を負うのではないか。
もしその応答が見えないのであれば、
私たちは「判決が正しかったか」だけではなく、
「裁判とは何であったのか」
という、制度そのものを問い直さなければならない。
これが、私が裁判を通してたどり着いた問いである。
