⸻裁判所が知らなかったとしても、残る問い――判断形成過程と可視性について⸻442日
裁判とは、当事者から提出された主張と証拠に基づいて判断を行う制度である。
したがって、裁判所がある事実を認識していなかったのであれば、その事実を前提として判断することはできない。この点は、裁判制度の基本的な構造から見ても理解できる。
しかし、そこで一つの問いが残る。
もし、係争中の不動産について、一方当事者が売却契約や売却手続を進めていたという事実が存在し、それが裁判所に認識されないまま判決がなされたとすれば、その判断形成過程はどのように理解すればよいのだろうか。
ここで問題となるのは、売却行為それ自体の適法性を論じることではない。
また、当事者の違法性を直ちに断定することでもない。
本質的な問いは、
「その事実が裁判の判断形成過程にどのように位置付けられていたのか」
という点にある。
裁判所がその事実を知らなかったのであれば、当然、その事実を評価することはできない。
しかし、それは同時に、その事実が重要ではなかったことを意味するものではない。
むしろ、裁判の結論に影響を及ぼし得る重要な事情が審理の外に置かれたまま判決が示されたのであれば、後からその記録を読む当事者や第三者は、判断形成過程を十分に検証することができなくなる。
一方で、その事実を当事者が認識していたのであれば、今度は別の問いが生じる。
なぜ、その事実は審理の場に現れなかったのか。
なぜ、裁判所が認識し得る形で争点化されなかったのか。
そして、そのことは裁判の判断形成過程にどのような影響を及ぼしたのか。
ここで重要なのは、
「裁判所が知らなかったこと」と「その事実が重要ではなかったこと」は同義ではないという点である。
知らなかったのであれば、その事実は判断形成過程に組み込まれていない。
知っていたにもかかわらず判決理由で扱われていないのであれば、今度は理由提示や争点整理の問題となる。
いずれの場合であっても、後から判決を検証する者に残る問いは同じである。
「この事実は、裁判という場でどのように扱われたのか。」
裁判の正当性は、結論そのものから生まれるのではない。
どの事実を認識し、どの事実を争点として整理し、どのような理由によって評価し、最終的な結論へ接続したのか。
その判断形成過程が可視化されているからこそ、人は判決を理解し、批判し、あるいは受容することができる。
逆に、重要な事実が審理の外に置かれ、その扱いが判決から読み取れないとき、第三者が失うのは結論への賛否ではない。
失われるのは、その結論へ至る論理を検証する機会である。
だからこそ、裁判の正当性を支えるものは、単なる結論ではなく、何が判断の対象となり、何が判断の基礎となったのかを社会に示す説明可能性と検証可能性なのである。
⸻
