これは相続争いではない一一抵当権が責任を消す構造について一395日
【抵当権は、いつから「免罪符」になったのか】
相続の場面で語られる抵当権は、通常こう理解されている。
「借金の担保」
「金融機関の安全装置」
しかし、今回の一連の出来事を通して見えてきたのは、
抵当権が「責任を説明しないための装置」として機能してしまう危険な構造である。
これは一家庭の問題ではない。
制度の使われ方そのものが問われている。
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【抵当権が責任を反転させる瞬間】
本来、抵当権とは、
・借りた者が返済できなければ
・担保から回収する
という制度である。
つまり、
「借りた責任」
そのものを前提としている。
ところが相続の局面に入ると、奇妙な反転が起きる。
・抵当権が設定されている
↓
・借金だから仕方がない
↓
・相続財産とは切り離される
↓
・誰が借りたのか
・誰が使ったのか
・誰が返さなかったのか
が説明されなくなる。
結果として、
責任だけが制度の中で消えていく。
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【さらに危険なのは法人名義の抵当権である】
この構造が一段階複雑になるのが、
法人名義で抵当権が設定されている場合である。
制度上は、
・法人の借金
・個人の相続
は別問題として扱われる。
しかし現実には、
・法人代表者
・財産管理者
・相続によって利益を得る者
が重なっている場合もある。
それでも制度上は、
「法人の問題」
「個人の問題」
として切り分けられる。
結果として、
責任だけが宙に浮く。
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【抵当権と医療費控除が重なると何が起きるか】
ここでさらに深刻な問題が生じる。
医療費控除は、
「誰が生計を維持していたか」
を示す制度である。
一方、
抵当権は、
「誰が信用を利用していたか」
を示す制度である。
もし、
・扶養されていた者
と
・経済的に独立していた者
という説明が制度上で同時に成立してしまうなら、
制度は互いに矛盾する説明を許容することになる。
・生活は支えられていた
・しかし信用は自由に利用していた
・それでも責任は説明されない
この状態は偶然ではない。
制度同士が接続されないことによって生まれる構造的空白である。
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【なぜ裁判で扱われにくいのか】
この問題が厄介なのは、
一つを説明しようとすると、
他の制度にも説明が必要になるからである。
例えば、
・抵当権
・医療費控除
・扶養関係
・遺言
・財産目録
・相続財産
これらは本来独立した制度である。
しかし実際には相互に関連している。
そのため、
どこか一つを深く検討すると、
他の制度にも説明責任が発生する。
結果として、
形式だけで整理し、
実態には踏み込まない処理が行われやすくなる。
裁判は進む。
しかし、
説明は残らない。
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【これは悪用ではなく構造の欠陥である】
誤解してほしくない。
これは特定の人物を断罪するための文章ではない。
問題なのは、
・抵当権制度
・法人制度
・相続制度
・税制度
がそれぞれ独立して設計されていることである。
その接続部分において、
責任の所在が曖昧になる余地が生まれている。
私はその構造を問題にしている。
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【なぜ最高裁レベルの問題になるのか】
この問題は、一家庭の相続問題ではない。
本当に問われているのは、
制度がどのような説明を行ったのか、
そして、
どのような説明を行わなかったのかである。
もし、
・借金の実態
・扶養の実態
・財産管理の実態
・財産帰属の実態
が十分に説明されないまま整理されるのであれば、
社会はその結論から一定の行動原理を学習する。
それは、
「実態より形式」
という学習である。
金融は信用によって成立する。
税は実態把握によって成立する。
相続は財産帰属の正当性によって成立する。
それにもかかわらず、
説明されるべき部分が説明されないのであれば、
制度は徐々に説明能力を失っていく。
だから本件は一家庭の問題ではない。
制度が制度として機能しているのか。
制度は国民に対して何を説明し、
何を説明しなかったのか。
そのこと自体が問われている。
だからこそ最高裁レベルの問題なのである。
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【記録として残す理由】
私はこの文章を、
誰かを攻撃するために書いているのではない。
抵当権が、
いつの間にか責任を説明しないための装置として機能し得る構造が存在すること。
その危険性を記録として残したいだけである。
もしこの構造が見過ごされるなら、
同じ問題は必ず別の場所で繰り返される。
だから書く。
これは相続争いの記録ではない。
制度が説明責任を失う過程を記録した文書である。
