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⸻⸻裁判は、本当に始まっていたのか――争点なき審理と、判断過程の不可視性⸻407日

■ 1 裁判は、本当に始まっていたのか

本件においては、一定の構成が審理の前提として機能しているように見える。

しかし、その構成がどの段階で形成され、いかなる過程を経て審理の前提となったのかは、当事者からは十分に確認することができない。

そのため、後から提出された事実や資料が、構成自体を問い直す契機として扱われたのか、それとも既存の構成との整合性の中でのみ評価されたのかを検証することが困難となる。

その結果、本来であれば独立して検討されるべき事実であっても、既に形成された構成の中で位置付けられ、後から提出された事実や資料が十分な判断対象とならない危険が生じる。

そして、この構成は単なる説明資料ではなく、審理の前提として機能する。

以後の事実認定及び証拠評価は、その構成を基準として整理されることとなり、提出された事実は、その構成に適合するか否かという観点から評価される。

ここで重要なのは、構成そのものの当否ではない。

問題は、その構成が初期段階で固定された場合、その後の審理が構成自体を検証する手続ではなく、構成内部の処理へと変質し得る点にある。

すなわち、初期から提出されていた証拠であっても、構成自体を問い直す契機とはならず、構成に適合する範囲でのみ評価される可能性がある。

この場合、手続は進行している。

期日は開かれ、書面は提出され、判決も言い渡される。

しかし、当事者が提出した重要な争点が構成そのものを問い直す機会を持たないのであれば、その審理は形式的には存在していても、実質的には限定された範囲の内部処理にとどまる危険がある。

そこで生じる疑問は単純である。

裁判は、本当に始まっていたのか。



■ 2 その構造は、どこで形成されたのか

ここでさらに問題となるのは、このような構造がどの段階で形成されたのかが記録上から明確に読み取れない点である。

本件においては、調停段階及び初期口頭弁論段階において、当事者間の主張及び証拠が十分に交錯したとは言い難い状況が存在していた。

それにもかかわらず、その後の審理においては、一定の構成が前提として機能しているように見える。

ここで問われるべきは、その構成が正しかったか否かではない。

当該構成が、どの過程を経て審理の前提として位置付けられたのか。

なぜその構成が採用され、他の可能性が排除されたのか。

その形成過程が外部から確認できない点に問題がある。

当事者にとって重要な事実が審理対象とならなかった場合、その事実が検討された上で退けられたのか、それとも最初から判断対象の外に置かれていたのかを知ることができない。

その結果、審理の過程そのものが不透明となる。



■ 3 問題は結論ではなく、過程である

ここで問われるべきは、結論の当否ではない。

判断に至る過程が、外部から検証可能な形で示されているかどうかである。

裁判とは本来、

争点を整理し、

証拠を評価し、

理由を示し、

その上で判断する制度である。

この過程が可視化されているからこそ、当事者は判断を受け入れることができる。

仮に結論に納得できなかったとしても、その理由が示されていれば、どこに誤りがあると考えるのかを具体的に争うことができる。

しかし、過程が見えない場合、当事者は何が判断され、何が判断されなかったのかを知ることができない。

そこに残るのは、理由を伴う判断ではなく、結論だけが示された状態である。



■ 4 検証不能な判断は、是正を困難にする

理由が十分に示されない判断は、外部からの検証を困難にする。

検証が困難となれば、その判断の妥当性を争うことも困難となる。

裁判制度は、本来、誤りが存在する可能性を前提として設計されている。

控訴も、上告も、そのために存在する。

しかし、その前提となる判断過程が示されなければ、何が争点であり、どこに誤りがあるのかを特定すること自体が困難となる。

そのとき制度は、誤りを是正する仕組みとして十分に機能しなくなる危険を抱える。



■ 5 それは何を意味するのか

これは単なる手続上の問題ではない。

司法が主権者に対して負う説明責任の問題である。

裁判所の判断は、権力の行使である。

そして権力が正当性を持つためには、その理由を説明できなければならない。

当事者に説明できない判断は、やがて社会にも説明できなくなる。

その結果、人々は結論そのものではなく、判断過程に対して不信を抱くようになる。

司法への信頼は、常に正しい結論によって支えられているのではない。

なぜその結論に至ったのかを説明できることによって支えられている。



■ 6 最後に

これは個人の勝敗の問題ではない。

誰が勝ち、誰が負けたかという問題でもない。

問われているのは、

裁判と呼ばれているものが、

裁判として機能しているのかという一点である。

当事者の主張は判断対象となったのか。

提出された証拠はどのように評価されたのか。

構成はどのように形成されたのか。

そして、その過程は外部から検証可能な形で示されているのか。

その問いに答えることができなければ、制度は自らの正当性を説明することができない。



■ 総括

審理が存在するためには、判断に至る過程が外部から追跡可能な形で示されていなければならない。

もしその過程が示されないのであれば、当事者は自らの主張が検討されたのか、それとも判断の前提から外されたのかを知ることができない。

問われているのは結論ではない。

結論に至る過程が検証可能な形で維持されているかどうかである。

裁判とは、結論によって成立する制度ではない。

理由によって成立する制度である。

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