なぜAIなしで誰でも作詞作曲できるようになるのか?──曲が作れるようになるパラメータと阻害条件(無料記事)
もくじ
なぜ人は音楽に憧れるのか?
才能とは何かーライフソングを作れる≠才能
僕らは同じ運命を与えられた同じ人間ではないーゆえにそこに優劣はない
曲が生まれてくる環境条件──安心安全の祝福空間
「才能やギフトの話」と「曲は誰でもつくれる」は矛盾している?
入学条件はたった一つ──世界観へのコミット
ライフソングは「赤心」を差し出すこと
音楽経験者ほど苦戦する、という逆説
鍵は「素直さ」──田上メソッドをやるかやらないか
「曲を作れる」と「ライフソングを生み出す」は違う
自我を薄くする──ゼロから1を生む普遍的な方法
「私が作る」のではなく、「私を通して、立ち現れてくる」
谷川俊太郎「自分ゼロにする」
なぜ楽譜も楽器もできないのにライフソングができるのか
生まれる日は指定できないが、生まれてくるときに生まれてくる
メロディーを生み出す産婆支援──誰でもライフソングは生み出せる
なぜAIなしで誰でも作詞作曲できるようになるのか?──曲が作れるようになるパラメータと阻害条件
なぜ人は音楽に憧れるのか?
「できることなら自分の歌を作ってみたい」
そう思った瞬間がない人は、あまりいない気がする。
なぜなら僕らは皆、音楽を聴くからだ。なぜ聴くかといえば好きだからだ。いい曲だなあと思う。この人はいい曲ばかりだなあ。自分もこんな曲が作れたらなあと憧れる。
人は憧れを志向して生きる。だから音楽を聴くには、自分でもやってみたいという瞬間が訪れる。ピアノも同じだ。僕がピアノに「陶酔」するという経験をしたのは、スクールでも講師を務めていただいた塩谷哲さん(ソルトさん)のコンサートが初めてだった。「もしもピアノが弾けたなら」という西田敏行さんの名曲が頭に浮かんだ。その瞬間、自分もこういうピアノが弾きたいと憧れたのだ。
しかしピアノはそう簡単には弾けない。「猫ふんじゃった」しか弾けない自分が、ある程度弾けるようになるには、残りの人生のほとんどの時間を費やしても叶わぬ夢だろう。
才能とは何かーライフソングを作れる≠才能
ましてや、これは何事もそうであるが、ソルトさんのような日本で数本の指に入るようなピアニストになるには、音楽の神様から与えられたギフトが必要だ。
本人の「魂の志向性」というべき、気がついたらそれをやってしまっている、休みの日でも、ボランティアでもそれをやってしまうぐらいの「ライフ関心」があることがその第一のギフトだ。
それがあるからこそ、数十年という単位の、人生をかけた努力や工夫や経験の積み重ねが継続できる。ただ、日本で有数の、という領域は、それだけでも説明できない(必要条件だが十分条件ではない)。
ソルトさんのピアノは、同じピアノを弾いているはずなのに、他の屈指のピアニストが弾いているピアノと全く違う「何か」のとして体験される。池田綾子さんの歌声は、歌を超えた何かとして立ち現れてくる。
そこには月並みだが「音楽の神様に愛されている」と形容するしかないような、余人が及ばぬ「何か」がある。その違いは素人の僕でもわかってしまうほど明瞭だが、それが何か説明せよと言われたら説明することはできない。
僕らは同じ運命を与えられた同じ人間ではないーゆえにそこに優劣はない
このように書くと「優劣」や「幸運」の話をしていると思うかもしれないが、そうではない。どちらかといえば「宿命」と「運命」の話をしている。
「宿命」とは、変えられないものだ。例えば与えられた「身体」──これも変えられない。魂が望んでいるとしか思えないような「ライフ関心」──これも選んだものではない。これまでの「過去」も変えることはできない。
「運命」とは、与えられた身体や志向性、生まれや環境、これまで起きた出来事といった変えられない「宿命」の中で、苦悩し、喜び、慟哭して、幸せを感じながらもがき、生き切ることだ。
そこに「優劣」はない。原理上、そこに「優劣」をつけることに意味はない、ということだ。なぜか? 最初からあまりに違いすぎて比べられないからだ。「同じ人間」と人はいうが、それって本当だろうか?「人間」という言葉は便利で「人間」という意味では「同じ」と言えなくはない。
だがここで問いたいのは、「本当に同じ人間なのか?」ということだ。親も違う、先祖も違う、与えられた遺伝情報も環境も違う、時と場所も違う、好きなものも嫌いなものも、自然とできることも、自然としてしまっていることも、まるで違う。このように徹底的に突き詰めて考えればーこれが「原理的に考える」ということなのだが、「同じ人間」というのは根本仮説でしかなく、本当は全然違う「宇宙」のようなものだから、本当はそれぞれの人生を比べて優劣を論じることに有意義性はないのだ。
「いや、誰が考えたって大谷翔平は凄い」という人もいるだろう。僕も大谷翔平はすごいと思っている。ただそれがすごいのは、資本主義やスポーツ界で圧倒的成績を収めているからではなく、与えられた「大谷翔平」という運命を苦悩しながら懸命に生きているからだ。障害がある方がその与えられた運命の中で苦悩しながら懸命に生きている人がすごいのと同じだ。どんな運命にはそれぞれの苦悩に祝福された瞬間があり、それを引き受けて生きていることに優劣はない。
若くして亡くなる人もいる。100歳まで生きる人もいる。長生きしたいと思うのは人情だけれど、一人の実存としてみたとき、どんなに短かろうが長かろうが、その与えられた命を懸命に生きたことに、優劣があろうはずもない。
僕らは本能から始まり、優劣、相対性、比較志向に洗脳されてきているので、優劣の思想の引力から脱するのは生半可なことではないが、そういう思考がもたげてくるたびに、そのことに気付いている自分を観察して、自分の人生を生きることに集中し直すしかない。
曲が生まれてくる環境条件──安心安全の祝福空間
「できることなら自分の歌を作ってみたい」に話を戻す。なぜ、上記のような話を長々としてきたかといえば、曲を作ることに深く関わっているからだ。ほぼその正体と言ってもいい。ここでは選ばれた人しか作曲できない、と言いたいわけではない。逆である。作曲は、あえて断言するが「誰でもできる」。だが、いくつかシンプルな条件がある。
これまでMusic of Life Schoolを4期まで期を重ねてきて、「音楽未経験者」を中心にー僕のように楽譜も読めない楽器も弾けない、音大で専門的な教育を受けるどころか音楽の授業も劣等生だった人も含む、数十人という老若男女が、自分のオリジナルのライフソングを作ってきた。AIを使わずに、だ。
これは本当だ。しかし「誰もが作れるようになる」=「必ず作れる」ではない。「簡単にできる」でもない。曲が「生まれてくる」方法は伝えるし、大概の人は実際に実現しているが、作れない場合もある。4期積み重ねてきて、50人以上の参加者がいる中で、その条件のようなものが見えてきた。
なお、このスクールでは、絶対的な「肯定」と「祝福」に溢れた場をみんなで作っており、それが曲が生まれてくる必須条件となっている。一般的にどんなに拙い、素朴とされるような一言であっても、一音であっても、その人の人生を表すものが生まれてきたならば、それを祝福する。それだけがこのスクールで大切にしている唯一の価値観であり、ルールと言ってもいい。
だから、そこでは、曲の質を云々批評されることは一切ない。全ての回のナビゲーターであり講師の田上さんは機が熟したら「どこがどう素晴らしいのか」だけフィードバックしてれくるが、助言すら求められない限りせずに温かく見守っている。これは誰でもできそうに思うかもしれないが、実際にできる人は本当にいないと思う。この田上さんの徹底した神父さんのように祝福する姿勢が、Music of Life Schoolで、曲が生まれてくるもっとも重要な体験を根底から支えている。
「才能やギフトの話」と「曲は誰でもつくれる」は矛盾している?
冒頭でした「才能やギフトの話」と「曲は誰でもつくれる」は矛盾しているように聞こえるかもしれない。だが、それは「曲」=「(誰が聴いても耳障りのいい名)曲」と無意識に変換しているからである。これが厄介なところで、僕らは自分が聴いている「曲」を「曲」だと思っているので、その完成した「曲」の水準から、自分の殻を破って生まれてこようとする「赤ちゃんの曲」を前もってジャッジして、「自分に曲なんか作れない」といっているのだ。
完成した成功している大人を基準に、これから生まれようとする赤ちゃんを比べることに意味(有意義性)はあるだろうか?ーー言うまでもなく1mmも無い。生まれてこようとするものにふさわしいのは祝福だけだ。どんな曲も祝福する姿勢を本当にもっていれば、必ず生まれてくる。
なぜなら僕らは言葉を話したり、音を発したりすることができるからだ。尾崎豊が曲の前や、途中で語り出すところがくだりがあるように、原理上、語りと歌に明確な境界線はない。それっぽく伸びていたり、抑揚があったり、リズムや波が繰り返されると「語り」は「歌」っぽくなる。
しかし、何度も繰り返すように、自分の人生と向き合って、新たなチャレンジをしていることそれ自体が尊く、祝福すべきことでしかない。曲を作った人が偉いわけでもなく、必要生み出せた人が素晴らしくて、そうじゃなければダメという図式すらない。
もちろん、ライフソングを作るためにスクールに入ってくるわけで、それを生み出したいと志向することは、必要な志向性である。志向性はアンテナになる。アンテナが立っていることで、「これは、歌詞になりそう」とか、「なんか、浮かんだこのメロディ、メモしておこう」となるのだから、ライフソングを作ろうとする意思は必要なのである。
だが、それと同時に、そういう意思を持っていつつも手放す、矛盾する自己でいることが鍵になる(これを西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」といった)。簡単に言えば、望みつつも手放す、ということだ。
この背反するような微妙な感覚、わかるだろうか。いい曲を生み出せたら素敵だなと思うのは人情だけれど、最初から名曲を生み出せなければと思ったら、その検閲に引っかかって生まれてくるものも生まれてこなくなる。
だから生まれてきそうなものは、全てメモする姿勢が正しい。それを人様に届ける話と混同しがちだが、それとこれとは全く別の話である(中原中也は生涯で350篇以上の詩を書いたが、生前に詩集としてまとめられたのは『山羊の歌』の47篇のみであった)。僕らが普段聴いている曲は、商品としてたくさんの大人が関わり、仕上げられた完成品なのだ。それだって生まれた時は赤ちゃんだったわけであり、だからまずゼロから1を生み出すことが大事なのだ。
僕はだから、授業中に、未発表のあるいはできたばかりの洗練されていない歌詞や曲も見せるようにしている。当然そこには玉石混交ある。でもそれが創作の現実なのだ。選ばれて、磨き上げられ、世に出したものだけを見せられたら、曲を生み出すハードルは高くなるだけだからだ。また曲を作るプロセスを、そのまま見せている。
いつこういうことがきっかけで、こういう歌詞を書いて、こんなふうに整えて、いついつこういう時にメロディーが浮かんできたから、こんなふうにヴォイスメモに録音したと実際に迷いながらメロディーラインを探りながら録音しています、と本当のThe First Takeを聴いてもらって、これでいいんだと思ってもらえるようにしている。
これはプロの作曲家ができるかと言えば、相当に困難だと思う。なぜならこれは教育的には重要な意義があるのだが、「先生」として「アーティスト」として「高く」みられるかといえば、むしろ、「低く」みせているわけだから、「たいしたことない」となるリスクもあるからだ(僕にとってもこれは本当に下着姿みたいなものなので、肯定的でクローズドの場限定だからできることだ笑)。
僕の講師としての役割は、僕のように楽譜が読めない、楽器が弾けない人を含めて「誰もが曲を生み出せるパラメータ」を揃えることだ。一つ一つ曲が生まれてくる障害を取り除き、自分の手持ちの言葉と体験で作れることを示し、理論と方法によって梯子をかけていくことだ。
音楽的な憧れや、高度な音楽性については、田上陽一さん、池田綾子さん、塩谷哲さんに担っていただくわけだが、このお三方も、「高み」から「高尚なもの」として示すのではなく、「私たちもみなさんと同じように悩みながらやっているんです」、ということを示してくださるので、ああ魔法に見えるけれど、魔法じゃないんだ、同じ人間が苦悩しながら作っているんだと思えて不思議と勇気をもらえるのである。
そして、早く作った人の方が偉いということもない。人が早く生まれたほうが偉いというわけではないのと同じで、曲は生まれてくる時に生まれてくるし、生まれてこない時には生まれてこない。表には生まれてこない曲すらあるかもしれない。
誰だって曲ができたら嬉しい。それはみんなで祝福。僕だってそうだ。だから「こんな曲が生まれました」と無邪気に伝えることだってある。だが、繰り返すがそこには、原理上は、上も下も優も劣もない。
「優劣がある」とジャッジするのは、早いほどよい/多いほどよい/できるほどよい/という物量思想に侵食された僕らの「自我」である。それは人間だし世の中に発信する段階では機能することもある。ただ繰り返してきたように、生み出す時には妨げになるので、「ああ、これは自我の声だなあ」と気づいて静かに観察しておくことだ。
入学条件はたった一つ──全祝福の世界観へのコミット
少なくともこのスクールではこういう世界観で成り立っており、だからこそ、誰でもライフソングを作れるようになるのだ。このスクールに入学できる条件は一つだけ。この全てを祝福する価値観、世界観に心の底からコミットできる、ということだ。
なぜか。僕らは普段意識することはないが、多かれ少なかれ、音楽教育の中で、あるいは日常の生活の中で、音楽に関してジャッジされ、否定され、傷ついてきた経験があるからだ。それが曲が生まれてこようとすることを妨げる最大の阻害要因なのだ。
ライフソングは「赤心」を差し出すこと
自分のライフソングを生み出すというのは、赤心──赤子のやわらかい魂の一部をそっと手のひらの上におくような、この世のどんな作業よりも繊細なケアが必要な営みになる。
だから、ライフソングを生み出すのは、怖い。自分の中にあるということを認めるのすら怖いこともあると思う。ましてやそれを自分の言葉で表現して、それを人の前に差し出すことが、どれだけおそろしいことか。
想像してみてほしい。一人でもそれをジャッジしてきたり、批評してきたりする可能性がある人がいたらどうかと。自分の赤ちゃんよりもか弱い赤心を、その人の前に晒すことができるだろうか。どんな強敵にも勇敢に戦える勇者でもできないと断言できる。それは、批評的な一言で簡単に壊れてしまう、シャボン玉のような儚いものだからだ。
その魂のシャボン玉が生まれてきてもいいと思ってくれるには、絶対安全な空間でなければならない。
そして、ふわっと生まれてきた歌が宙に浮き続けて、少しずつ育つには、強風がないだけでは足りなくて、地面に落ちないように、周りの人たちが祝福の息吹で吹きあげてくれるような、温かく柔らかな空間が必要なのだ。
このスクールでは、そのような空間を実現している。だから音楽の授業で劣等生だった人も、音大を出て音楽から離れていたという人も、誰もが「生み出せる」ようになる。
音楽経験者ほど苦戦する、という逆説
だけれども、=「必ず作れる」というわけではない。繰り返しになるが、ライフソングを生み出せた人が偉いとか、そういう話では全くない。
ただ、結果として生み出せたケースと、そうじゃなかったケースを研究する中で、いくつかのパターンが見えてきた。これは今後、ライフソングを生み出したいと思って入学してくる人たちにとって、大切な知見になる。
まず、音楽経験者の方が有利と思いがちだが、全くそんなことはない。むしろこれまでのケースを見る限り、逆であった。いわゆる「音楽的には素人」のような人、あるいは教育的な経験が少ない人の方が、スムースに生まれてくるケースが多かった(繰り返すが、これは未経験者が優れているとかそういうことではない)。
なぜか。これまで直接見聞きしてきた事柄から類推するにいくつかの理由が考えられる。まず、音楽経験者は、その訓練経験が長いほど音楽を批評され、非難され、傷ついてきた経験が多い。また志向性が高いが故に、無意識に自らに課しているハードルが高い。
「こんなのは音楽とは言えない」「人様に聴かせるレベルではない」というように生まれる手前でジャッジしてしまう。これがほとんど無意識に──意識にのぼってくる手前で、自動的に行われてしまう。
また音楽理論を知っているために、それに縛られてしまう、ということもあるようだ。楽器が弾けるが故に、その楽器の型──コード進行や指の動き方に規定され、本来産まれたがっている形で自由に生みだすことが難しくなっていることもあるようだ。
鍵は「素直さ」──田上メソッドをやるかやらないか
だから、音楽経験者ほど、最初は生み出すのに大変でしたと言っている人が多い。しかし、一度蓋があいて生み出せるようになると、どこまでも羽ばたいていく。なぜならもともと相当関心が高く知識と経験と技術の積み上げがあるので、楽譜読めたり、楽器を弾けたりするので、すぐにバンドを組んで活動を始めたりする。
では、苦戦しながらも、ライフソングを生み出している経験者全員の共通点は何か?
──それは「素直さ」である。
だから、EMS本質クレドでも、「経験やプライドは成長の足枷になるので、できるだけ横に置いておき、自分をできるだけまっさらにして、自由にしておくようにしましょう」と書いてあり、これを毎回始まる前に聞くのは、この素直な姿勢をセットするためである。
では、何を持って「素直さ」と言っているか? コースのナヴィゲーターであり、一緒に講師をしている田上陽一さんが開発したヴィジュアライズメソッド──簡単に言えば自分の人生で浮かんでくるシーンを絵を描いて、そこから作詞、作曲をしていくという方法があるのだが、「これをやるかやらないか」にシンプルに現れる。
プライドや自我のこだわりがあると「自分は自分のやり方でやります」となる。もちろんそれでライフソングを作れるならそれでいいのだが、少なくとも、これまでのところ、結果として、音楽経験者で田上メソッドに沿って取り組んだ人は全員ライフソングを生み出せており、そうじゃない人は生み出せてはいない(なお、これはコミットメントの結果なのか、メソッドに左右されたものなのかはっきりしたことはわからない)。
僕も最初はこの田上メソッドで取り組んだ。その時のビジュアライズした絵はこれだ。自分は絵心がないから自信がない、という人も、この棒人間の絵を見て安心してほしい。要は、自分がイメージしたシーンを自分で思い出せる鍵になっていればいいのだ。
なぜこのメソッドが有効なのか。逆に言えばなぜいきなり歌詞を書かないのか。それは歌詞を書いてしまうと、その言葉の制約を受けてしまい、原点に戻りにくくなってしまうからだと田上さんはいう。原初的なイメージがあれば、言葉にとらわれずに、展開できる。いつでもそこに戻ることができる。ビジュアライズしたものが、曲が生まれる、原風景になるのだ。

だから、初めて作るという人は最初は素直に田上メソッドでやった方がいい。一度扉が開けばこちらのもので、その後は方法を取らずとも、ライフソングを作れるようになる。僕の場合、その時生まれてきたのが「おやすみ、またね」という以下の曲です。
「おやすみ またね」
おやすみ 僕らの部屋
今日もみんなで眠ってる
離れ離れでいたのに
また集まれたことは奇跡
君たちスクスク伸びていく
僕たちだんだん老いていく
今日の君と出会える日は今日だけなんだ 今日だけなんだ
君のすべてを感じたい
ホカホカ 布団
ヌクヌク ぬくもり
スヤスヤ おやすみ
おはよう 僕らの部屋
今日もみんなで目が覚めた
離れ離れにならないで
一緒に生きてこれた奇跡
君たちいつか 巣立ってく
僕たちいつかは 空へゆく
今の君と過ごせる日は今だけなんだ 今だけなんだ
君のすべてを感じたい
ホカホカ 布団
ヌクヌク ぬくもり
スヤスヤ おやすみ、またね
なお、Music of Life School発の音楽レーベルとしてMOLS Recordが創設されており、配信済みの曲は tunecoreで聴くことができる(以下の画像をクリック。他の曲は最後のMOLS Recordのリンクから聴けます)。
この生み出すのと、人様に繰り返し聴いていただくことはまるで違う。肯定祝福の空間で曲は生み出せる。僕を通して10曲ぐらい生まれてきて、ライブで歌ったりすることはできても、配信することは何年もできなかった。繰り返し聴くレベルという点で、完成していないものを世に出すわけにはいかないと思ったからである。自分で聞いていても、理想とのズレがあるので恥ずかしかった。
これは曲を生み出すときの、絶対肯定の話とは別次元の話なのだ。僕は本を書いてきたので、それと似ていると思った。アイディアを生み出すときはどんどん生み出せばいい。だが、世に書籍として出す時にはどんなにアイディアに光るものがあっても、誤字脱字だらけでは繰り返し読む本としては世に出せる水準にない。著者としては一文字でも誤字があると、恥ずかしくて他の人に伝えることもできなくなるのだ。
音楽も同じである。メロディー的な、歌唱的な、リズムや音程的なちょっとした「誤字」のようなズレがあると、世に配信することはできない。
なぜできたかといえば、田上さんが中心となってMOLS Record(MOLS=Musis of Life Schoolの略)という音楽レーベルが創設され、配信できるまでの水準にしてくれるチームと仕組みができたためである。事前に名ヴォイストレーナーのコウタさんのボイストレーニングを受けて、収録時にはもリアルタイムで助言をもらいながら、その時点で最高の音源素材を揃える。さらにその音源を「世界の吉田さん」にヴォイスチューニングしてもらい、さらに田上陽一さんに最終調整してもらい「配信」となる。要は、僕をはじめとするこのスクールの修了生が全世界に配信できるようになったのは、プロと同じ工程を経て、繰り返し聴くことができる「商品」にできる仕組みができたからなのである。

「曲を作れる」と「ライフソングを生み出す」は違う
音大を出ている人は曲の作り方は習っている。ただ「曲を作れる」と「ライフソングを生み出す」はイコールではない。曲は作れても、ライフソングは作れないのはなぜか。先ほども言ったように、自分の人生と向き合い、それを表現するというのは、シャボン玉のようにか弱い赤心を現すということに他ならない。
自分の中に優劣思考や、ジャッジする気持ちが少しでもあると、その刃は自ずと自分に向いていることになる。そんな中で安心して生み出せないのは自然なことである。その優劣思考の正体は「自我」である。「自我」がライフソングを生み出す最大の阻害要因になる。
「自分が名曲を創り出してやる」とか、「ヒットソングを作ってやる」とか、そういう現世的な発想は全て「自我の声」であり、そういう状態では、本当に自分にとって「いい曲」が生まれてくることはないと思う。
「私が」曲を作る、のではない。「曲が、私を通して、生まれてくる」のだ。
自我を薄くする──ゼロから1を生む普遍的な方法
だから僕が一貫して伝えている内容は、「自我」を薄くする方法である。ジャッジする自我をいかに働かせないか。意識水準を下げて、無意識に近い状態で、自分にとって大切なことが、歌詞が、メロディーが、フワッと浮き上がってくる状態を作ること。
浮き上がってきたら、シャボン玉を手にくっつけるように、そっと掬い取ること。強く握ろうとしてはいけない。ましてや産まれたばかりの赤心を、世の中で通用するのかなどというジャッジを吹きかけようものなら、姿を現す前にふっと姿を消してしまう。
ライフソングを生み出すというのは、そういう儚い夢のようなものをこの世に現前させる、祈りのような営みなのだ。
なんだそんなことかと思うかもしれない。もっと技術的なことを知りたいのだ、という人もいるかもしれない。だが、技術的なことは、生み出してしまえばどうとでもなる。田上さんの支援を受けて洗練することもできるし、アレンジしてもらうことだってできる。しかしゼロから1を生み出す作業はその人にしかできない(それをやってもらったらそれは自分が生み出した曲とは思えないはずだ)。
自我を薄くし、意識水準を下げて、無意識領域で生み出していくこと。これは、理論、原理、数式、アイディアに限らず、自分の「頭」──「自我」では生み出せない領域のものを生み出すための普遍的な方法だと思っている。
自我が悪だと否定したり、無意識こそ本体だと言いたいわけではない。明瞭な意識は、すでにある知識をなぞったり、計算したりすることには向いている。しかし、あたかも無から有が生み出されるように、ゼロから1を生み出すには、意識や常識やジャッジが妨げになることが多いので、夢現のような状態の方が向いている、ということなのだ。
少なくとも、自分がそうしたものを生み出してこれたのは、この方法を実践してこれたからである。そして、この方法を「素直に」実践してきた人たちは、最初は「本当に曲なんて作れるのかな」と半信半疑だった人も含めて、実際に数十人という単位で、プログラムにコミットした人の9割以上は曲を生み出している。偶然ではないし、才能によるものではない、ということはわかると思う。
ライフソングが「本当の未来」を実現していく契機になる
では、Music of Life Schoolでは、単に、作詞作曲をするのではなく、人生のテーマとなるような曲を作る。ライフソングを作ると、人生に何が起きて、どんな風になっていくのか。
網野麻理さんは、2年前に「大空の向こうへ」という曲を作曲されて、太平洋戦争中に実際に書かれた手紙から生まれた平和への祈りのようなこの曲は、昨年、ドラッカー学会に関連した国際的な平和会議でも発表された。

大空の向こうに
柔らかな日が差し込み 昨日と変わらぬ朝が始まる
窓の外には緑が揺れる 僕はそれをぼんやり見てた
目を閉じると君の顔が 思い浮かんで涙こらえる
ずっと笑顔が続くように 祈りを込めて 僕は飛び立つ
今は何も言うことはない 大切な人を守るために
争いのない未来へ 自由に選べる世界へ
いつの日か生まれ変わったら また君と会えますように
空から見下ろす見慣れた風景 昨日も歩いた細い山道
大空の向こうに待ってる 輝く日々を信じている
愛した時間と愛された時間を、胸に抱えて 今 飛び立つ
君に別れを告げる時が 一日一日近づいてく
僕はなかなか勇気が出ずに いつもとおんなじふざけていた
君は何かを感じとって 僕に寄り添い手を握った
何も言わずに細い肩を 震わせじっとこらえていた
僕の心は揺るがない 大切な人のこれからが
優しさで溢れる未来に包まれます様に
いつの日か生まれ変わったら やりたいこと全て叶えよう
母と歩いた、広い畑道 故郷の想い出 心に刻む
大空の向こうに待ってる 明るい世界を僕は見ている
愛した人の輝く笑顔が続くと信じて 今 飛び立つ
開聞岳を越える時がきた
君がくれたマフラー握りしめて 未来を託すよ
いつの日か生まれ変わったら また君と会えますように
空から見下ろす見慣れた風景 昨日も歩いた細い山道
大空の向こうに待ってる 輝く日々を信じている
愛した時間と愛された時間を、胸に抱えて 今飛び立つ
この曲を作ったことで、網野さんの人生はどのように変わっていったのだろうか?網野さんは次のように述べている。
「私は、あの曲ができたことで、演劇の舞台なども含め、表現活動をもっとしていきたいという気持ちになりましたし、曲が海外にも渡っていったことで、もっとグローバルに発信していきたいと思うようになりました。そしてそれ以上に、自分の中の大切なもの、軸となるものを見出すことができ、それをもっと大切にしていきたいと思うようになりました。」
網野さんは、実際に、この曲をモチーフとした朗読劇をこの夏に実現するべく準備を進めており、網野さんが元々もっていた志向性が開花し、「本当の未来」として立ち現れてきているのだと思う。
医師の安井浩樹さんは、昨年参加されて、「人生の音楽」を生み出されたことをきっかけに「音楽的人生」に変化していったお一人で、次のように述べておられた。
「1年前の今頃,影も形もなかったメロディーや歌詞がこの世に存在し、先週は千葉で、昨日は職場であるクリニックでの小さなサロンコンサートで、バンドやピアノに合わせて演奏し,そして歌える時間を持てた幸せ。このような機会を得れたことには感謝しかありません。診察室での僕自身のスタンスに少し余裕ができて,ちょっとだけいいお医者さんになれたかなと思っています。」
繰り返してきたように、これは世間的な「成功譚」の話をしているのでない。ライフソングにとって重要なことは、その人の「実存」ーー人間としての現実存在ーーにとってどのような意味を持つかだ。
それは、「家族には、自分の葬式ではこれを流して欲しい」と伝えているという服部恵祐さん(J.union株式会社 元代表取締役社長)の声に象徴的に現れていると思う。
「家族には、自分の葬式ではこれを流して欲しいと伝えています。MOLSでできた曲は、「自分はこんなふうに生きました」という自分の証そのものだからです。僕の場合は、この曲ができただけで本当に充たされていて、たくさんの人に聞いてほしいとか全然思わないんです。自分がこの世を去るときに、自分の中で、「こんなことがあったね、がんばったね」という思いとともに一緒に持っていきたいと思っています。」
この「お葬式で流してほしい」という言葉には、他の修了生のみなさんも同意されていた。ライフソングとは、いわばその人が懸命に生きた人生そのものを象徴するものなので、そこには資本主義では測れる比べることができない、その人にとっての「絶対的な価値」がある、ということなのだ。
「私が作る」のではなく、「私を通して、立ち現れてくる」のを掬い取る
だが、なぜ専門的な技術も知識もないのに、ライフソングを生み出せるのだろうか? にわかに信じられないという人はほとんどではないだろうか。作れるようになった後は「誰でも作れます」と確信を持って言っている人も、「作る前は自分は無理なのではと思っていた」と口を揃えて言うのも事実である。
かくいう自分も、実際に作れるようになる前は、「田上さんがいうのだから作れるのだろう」と信じたい気持ちと、「なんだかんだ言って才能があるから作れるのであって、自分は作れないのではないか」という不安が混じっている半信半疑の気持ちであった。
なぜか。「無から有を生み出す魔法」のように捉えていたからだ。
だが、そのイメージは間違いであったと、今となってはわかる。
だとしても、なぜ、これほど多くの「音楽未経験者」がオリジナルソングを生み出せるようになるのか。プログラムに仕掛けられた理由(構造)は幾多もあるのでそれについてはいつか書いてみたいが、ここではまずその条件を満たしているという点に着目しておきたい。
田上さんは、「子どものからずっとたくさんの音楽を聴いてきたから、それが自分の中に蓄積しているから」だという。最初にそれを聞いた時、なるほど、確かにそうかもしれないと思った。自分は音楽の教育は、学校の音楽ぐらいでしか受けたことはない。
だが、今までいったいどれだけの時間、音楽を聴いてきただろうか。仕事をするとき、研究をするとき、いつだって音楽に触れてきた。その意味で音楽は生活の一部になっている。意識することもなく、一人で口ずさんでいる時だってある。その意味では実践してきた、と言えなくもない。僕らには、十分すぎる蓄積がある、ということだ。
ただ、主語は「私」にしない方がいい。「私が 曲を 生み出す」と思わない方がいい。「私が作る」と思うと「自我」が全面に出て、「本当に立ち現れるべき姿」で立ち現れる妨げになるからだ。
英語で言えば、 I create my original song といった「SVO」の図式で捉えない方がいい。
「私が、曲を作り出す」のではない。
「長年かけて自分の中に蓄積されてきた音楽はすでに有り、それがライフソングとして、私を通して立ち現れてくる」のだ。
このスクールでは、結果として、ライフソングが生まれてくる、その環境と条件と契機を揃えていく。
谷川俊太郎「自分ゼロにする」
谷川俊太郎さんが、どんなときに詩が生まれてくるかについて、僕が、授業で伝えていることと全く同じことおっしゃっている動画をみつけて、やはりそうなんだなと思った。吉増剛造さんが『詩とは何か』でも同型のことを書かれていたので、「自分をゼロにする」のは詩が生み出されるための原理なのだ。
この感覚さえつかめれば、自然、生み出されるようになる。

「自分をゼロにするっていえばいいのかな。
言葉を自分の中から無くすっていうことですね。まずね。
詩を書くときの心の状態っていうのは、坐禅なんかに似ているんじゃないかと思うことあるんですけどね。
詩の始まりになりそうな言葉が、一行とか半行が出てきたら、そこからまた始められるんですね。
でも最初はできるだけ自分を白紙の状態にするっていうのが僕の場合は大事。」
なぜ楽譜も楽器もできないのにライフソングができるのか
メロディーは、楽譜も書けないのにどうやって書き留めるのか?これは時代の恩恵が大きいのだが、我々にはいつでも身近にスマホがある。
ある時、「自分の中で音が鳴っていることに気が付く瞬間」がある。メロディーが浮かんできたら、すぐにボイスメモを立ち上げ、その聴こえてきたメロディーを、鼻歌のまま、あるいは口笛でもなんでもいいので、そのまま吹き込む。
もちろん、歌詞も浮かんできたらすぐにスマホにメモする。夜中に、寝ている時に浮かんでくることもある。スマホは光ってくれるので、場所と時を選ばずに、歌詞もメロディもメモすることができる。
講師を務めていただいている池田綾子さんも、新しい曲が生まれてくる時は、そのようにされているとおっしゃっていた。
綾子さんの言葉を借りれば「意識に追いつかれる前に」というのがポイントになる。よしあしをジャッジする自我が立ち現れる前に、駆け抜けるように一気にボイスメモに入れてしまう。まず0から1を生み出すこと。それができて終えば、洗練やら何やらは、後でいくらでもどうにかなる。
著者がプロの編集者の力を借りているように、1さえ生み出せれば、洗練する段階でプロの力を借りることもできるのだ。
生まれる日は指定できないが、生まれてくるときに生まれてくる
ただ一つ断っておかなければならないことがある。自我を薄くして、無意識領域を使って、田上メソッドを「素直に」実践しても、数ヶ月というコース期間中にライフソングが生まれないことはある。
曲という生命は、誕生を望むことはできても、生まれる日を指定することはできない。いつ生まれてくるかはわからない。あまりに強く願いすぎても、自我が強く働くことになり、生まれてくるものも生まれてこない、ということもある。
それでも「素直な気持ち」で待っていれば、生まれてくる時には生まれてくる。願って、条件を整え、手放して待っていると、「ん、なんか聴こえてきた」とか、「なんとなく生まれてきそう」という瞬間が訪れる。
実際に、昨年は、コース期間中には生まれなかったけれど、EMS DAYS──希望者は曲を披露できる場がある──の数日前に「生まれて」、その場で発表されていた方が複数人いた。まだ生まれてきていないだけで、これから生まれてくる曲もいくらでもあると思っている。
メロディーを生み出す産婆支援──誰でもライフソングは生み出せる
そう言われても、本当にメロディーが生み出せるかと不安になるのはよくわかる。しかし、その点も心配無用。今回のコースは、久しぶりに「正規コース」として開催するため(前回はライトコースだった)、田上陽一さんが中心となって、授業中に希望があれば、メロディーを生み出すことを支援してもらえる、全部自力で生み出さなければならないということはなく、プロ中のプロのサポートを受けられるので安心して欲しい。
僕も第一期の時は自分が作曲できるかは半信半疑だったのだが、いざとなったら田上さんがなんとかしてくれるのだろうという安心感が最初の一歩踏みだす支えとなった。
あと一応述べておくと、「素直さ」とは別の次元で、単純に「忙しすぎて集中できない」場合も当然ながら曲を生み出すのは難しい。これは曲に限ったことではなく、どんなことも初めて生み出そうとする時に、一定の時間的余裕とコミットメントがはないと難しいのと同じである。
とはいえ、数ヶ月、2時間の授業が5回、その間に自主対話会が5回、これだけの時間でライフソングが生まれてくるのだ(本当だ)。音大に通うのとは桁がちがい、生活の中で学び、生み出していくことができる。
まとめれば、関心と、時間と精神的な余白と、自分の人生に向き合い、「素直さに取り組む姿勢」があれば、誰でもライフソングは生み出せる、ということになる。
ライフソングに関心のある方へ
実際にライフソングを作られた方々の声を、一部だけ載せておきます。その以下に、詳細が書いてあるサイト、無料イベントの情報を貼っておきますので、関心のある方はご覧になってみてください。




📌 Music of Life School 詳細・お申し込み
「自分のライフソングを生み出してみたい」と感じた方へ。本校は「誰もが大切な人生の音楽を生み出せる社会」を実現するためにに、エッセンシャル・マネジメントスクール(本質行動学学院)内の「10万円前後で短期間でライフソングを作れるようになる」コースとして創設されました。スクールの詳細とお申し込みはこちらからご覧いただけます。▶ https://mols5-2026.studio.site
🎤 EMS挑会議 パートⅢ「AI時代の音楽と物語」
前半はスクールの5名の修了生による発表があります。「音楽未経験者がどうやってオリジナルのライフソングを生み出せるようになったのか、曲が生まれたことで、どんなふうに変化していったのか」リアルな声をお聞きください。
後半は、スクールの講師 池田綾子さん、網野麻理さん、代表西條による鼎談を開催します(スクールの割引コードも発行いたします)。 ▶ https://emschokaigi-part3.peatix.com/
🎵 これまで生まれたライフソング
MOLS Record レーベルから全世界に配信されています。実際に生まれた歌を、ぜひ聴いてみてください。▶ https://mols5-2026.studio.site/3
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