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洗練された美に、心の雫を垂らして。

見上げた空は、黎明色と言った。

藤の香りが黒い瞳を見つめるように広がり、折れた剣先に新たな力を与える。ふーっと深く息を吐き、心の中でイチ、ニ、サン……を唱えながらペン先を滑らせていく。呼吸を香りに合わせ、キャンバスから浮かび上がる漆黒に耳を傾ける。

目を開いた先には、一枚の絵が飾れていた。私はそっと手を伸ばす。銀の砂粒から海の音が聞こえる。小さな新緑が波となり、海の香りを届ける。霞がかかる山肌は、いつしか空の模様へと変わる。天龍寺の庭を見つめ、私は何度も現実と虚構を往復していた。

ある漫画家が描いた文明開花の京都に憧れて、ある漫画家が描いた主人公に憧れて、気がつけば大学三年の春を迎えていた。昔想像していた二十一歳はもっと大人のイメージだった。今の私は遠く及ばない。彼のように三十歳を越えれば何か新しい景色が広がるのでは、と甘い期待をしつつ、茶屋に足を進めた。

アラバスター調の、艶のある白い壁。人の肋骨を模した檜が天を覆い、私の心を掴んで離さない。準備運動の伸脚を思わせる店内は、老若男女問わずいつも賑わっている。足を伸ばした部分が白いテーブル席で、曲げた足の部分が檜のカウンター席。私は迷わず檜の席を選択し、珈琲カステラと抹茶を注文する。無駄のない動きで、スマートに。

目を閉じれば、新緑と檜の香りが口いっぱいに広がる。人々の声が鳥たちの囀りへと変化し、森のカフェが姿を現す。令和の文明開花に、明治の文明開花を重ね、私は目を開ける……。

「いや〜。まさか、君のような優秀な若者が私のラボ(研究室)に来るとは思わなかったよ。なぜ、数学科から建築学科に転科したのか知りたいね。」
コーヒーを軽く口に含み、黒い長髪がフワッと音を立てる。浜名教授は今日も機嫌がいい。お腹の肉を少しつまんで、眼鏡を少し拭いて、私の返答を待っている。

「机上の空論に疲れてしまいました。生を感じないというか……。物心ついたときから幾何の分野が好きで、絵を数学的に研究できるかと思いましたが、本学の研究は少し違いました。アルゴリズムの研究ばかりで。もっと現実のものに触れたいというか。そうですね……例えるなら、ラノベの女の子だけでは満足できなり、現実の女の子を求めるようになったという感じです。」

私はラボの天井を見上げた。空には飛行機の骨組みが飾られていた。

「あぁ。それ凄い、わっかる。三千(さんぜん)氏。見た目に反して、アニメとか漫画も好きなんだね。」

隣の部屋から、同じ学年の虹宮(にじみや)がコーラを持って現れる。イソギンチャクみたいな頭で恰幅がいい。偏見だが、コーヒーよりもコーラの似合う男だ。本人の話では、昨年、彼女に振られたことをきっかけに目覚めたらしい。太陽のような浜名教授とオタクの虹宮と私、少数精鋭のアットホームなラボがここに誕生した。

「虹宮さんも、三千さんに興味あるみたいですね。仲良くなれそうで良かったです。工学部においては華の建築科と呼ばれますが、なぜかこのラボには一人も女性が集まりません。残念です。これも何かの縁ですから、男三人で仲良くやりましょう。補足ですが、隣の小町(こまち)准教授のラボは女性しかいませんよ。」
お腹の肉をさらにつまんだ後、浜名教授は笑顔で応える。私は入るラボを間違えたかもしれない。そんな雑念を遮るように、虹宮が言葉を添える。
「あらやだ。浜名氏。もしかして、歓迎会を兼ねて小町ラボと飲み会しちゃいますか。」
発言が不適切ではないかと私は口を挟もうとしたが、浜名教授は思いのほか嬉しそうだ。
「さすが、虹宮さん。頭の回転早いですね〜。もう手は打ってあります。先週、小町さんにメールでお誘いを入れておきました。まもなく返事が来るかと思います。」
浜名教授は勝ち誇ったような表情で、眼鏡に大きくフゥーと息を吹きかける。その後も、マリオブラザーズは話に花を咲かせ、私はしばしばの暇を貰うことにした。普段は無機質の壁が、リリー・ホワイトに輝き廊下を照らす。やれやれ、とため息をつきながら私は食堂に向かった。


キビタキの鳴き声が大学に響き渡る。柔らかな日差しを口いっぱいに吸い込んで、新緑はいつしか若葉色へと香りを変える。私の心を映し出す鏡のように、キビタキの鳴き声がキャンバスに新たな色を加える。

「茜(あかね)……。あかね様……。聞こえていますか。」
夏木(なつき)の声が、私を現実に呼び戻す。食べかけのグリーンカレーを見つめ、私は夏木に笑顔で応える。

「ごめん。夏木。ちょっと、ボーッとしていた。春眠暁を覚えずっていうでしょ。春ってボーッとしちゃうんだよね。」
手櫛で髪に触れながら、私は毛先に鼻を近づける。白檀(びゃくだん)の香りで心と体を誤魔化し、夏木を見つめる。
「何言っているの。もう午後よ。相変わらず、のほほんとしていますこと。そういえば、小町ちゃんから聞いた……。」
黒いショートヘア、黒い瞳。世話焼きな性格を除けば、清楚という言葉が一番似合う建築学科のアイドル。それが夏木だ。質問に知らないと応えると、嬉しそうに続きを話し始めた。学内のカフェテリアは今日も大混雑だ。

「先週、隣の浜名ラボから飲み会のお誘いが来たらしいよ。勿論、小町ちゃんはオタク大嫌いだから、即断ろうとしたんだってさ。」
「した……。まだ保留なの。」

「それが……。浜名ラボに新しく入った新人が気になるみたいで。うちの大学には珍しく、数学科から転科した人だってさ。確か名前は、サンタだったかな。結構、珍しい名前だったはず。数学科では歴代最高の頭脳と呼ばれていて、院を出たらすぐに安元教授のポストをもらう予定だったとか。そんな天才というか、変人がわざわざ転科を希望したということもあって、臨時の教授会が開かれたらしいよ。小町ちゃんが引き取りに立候補したんだけど、うちのラボは研究生多すぎるから却下されたんだって。で、空きたっぷりの、最も不人気な浜名ラボに配属されることになったらしいよ……。」

「なるほどね。でも、なんで小町先生は……その、サンタ……さん。をラボに入れたかったのかしら。うちのラボ、女性ばかりだから男性の色欲しかったとか。」
「ん〜分からないな。小町ちゃんはそこまで話してなかったけど。性格上、優秀な人好きだから囲っておきたかったんじゃないかな……。もしかして、茜も興味あるの。」

夏木は二杯目の紅茶にミルクを注ぐ。アッサムの甘く爽やかな香りが駆け抜ける。ココナッツとハーブの香りをかき消して駆け抜けていく。私は全面ガラス張りの、奥の景色を見つめる。檜の木々のさらに奥の、学食を見つめて。


観光名所「千本砦」は本学の中心部に位置する。学食とカフェテリアを結ぶ道沿いに、大小様々な檜が植えらえている。その数は10千本を超え、足を踏み入れた者をファンタジーの世界に誘う。特に二十階建て建築科棟の最上階、カフェテリアから見下ろす景色は世界遺産にも引けを取らない。学生だけでなく一般の来校者も多く訪れるため、カフェテリアは連日お祭り状態だ。

私は人混みを嫌い、わざわざ遠くの学食に向かう。ここから学食までの距離は意外に遠く、獣道を二十分ほど歩かなければならない。

ちなみに、反対側から見える景色は最悪だ。背の高い檜たちに視界を遮られ、食堂を取り囲むようにしてお気持ち程度の川が流れている。銀色のクジラのような建物が口を開いて訪問者を出迎える。私はここを「独房」と呼んでいる。僅かに見えるカフェテリアは、神の住まいか、看守棟と言ったところか……。

私は天ぷら蕎麦を注文して窓側の席に座る。
ボーッと檜を眺めながら食事に集中する、至福のときだ。

「もしや、三千さんではありませんか。」
黒い瞳の中心はヴァーミリオンを垂らしたように赤い。ナチュラルブラウンのミディアムヘアは、落ち着いた口調で私に話し掛ける。彼女が右手に持っている書籍『絵具の科学』と、サグラダ・ファミリアのデッサン集は自信の表れを感じさせる。

「いえ。人違いかと思います。私のような、黒い短髪に黒い眼鏡を掛けた人物はこの大学に五万といますから。」
私はトラブル回避すべく、爽やかな笑顔でお引き取りを願った。しかし、彼女は引き下がらない。クリーム色のパンツスーツを選択し爪が短いことから、私は彼女を建築学科の准教授と推察した。無駄のない所作を見る限り、浜名教授とは別次元の存在だろう。そんなことを見透かしたように彼女は私の向かえ側に座り、左手に持ったコーヒーを一口飲む。
彼女の瞳のように赤と黒が優しく触れ合う。赤と黒の境界に心を奪われる。そして、彼女は私を見つめた。

「人違いでしたか。ごめんなさい……。じゃあ、お詫び次いでに少しゲームをしましょう。これから出す問題を十分で解けたら、この書籍を差し上げるわ。もし解けなかったら、この後、私とデートしましょう。」

美しい女性は自信に満ちた顔で、A4サイズの紙を私に差し出す。私は逃げ場がないと悟り、素直に紙を受けて取る。

【問題】
アイスクリームの表面だけを見て、開封前の容器の形を予測(復元)できるか。

私は大きくため息をつく……。
「この問題を解くことはできません。これは、『Tingley問題』です。半球(アイス)と円錐(コーン)に限定するのであれば、リプシッツ連続を担保できるから証明可能かもしれませんが。溶けたような形までを考慮すると難易度が一気に跳ね上がります。数学の未解決問題を、たった十分かつ、この狭いスペースに解くことは不可能です。これは出題のミスではないのですか。」

私は呆れた振りをしつつ、彼女の意図を探る。彼女は勝利を確信して笑顔で応える。

「あら、知らなかったわ。突然、頭の中で面白そうな問題が浮かんできたから出題してみたの。数学詳しいのね。私の負けだわ。約束通り、この本をあげる。そういえば、数学科から建築学科に転科した生徒がいると聞いたけど。もしかして、あなたのことかしら。」
「なるほど。最初からそれが……。そうですよ。私が三千です。建築学科で最も有名な先生が、私に何のご用でしょうか。」

私は頭をかいて、今後の展開を予測する……。緋色の研究は終わりを告げ、彼女はガラス越しに檜の森を見つめる。緋色は檜を焼き尽くし、バラの甘い香りで周囲を包む。そして、彼女の口元は優しく微笑んだ。

 

ゆで卵に銀色の塩をかけて、少し黄身が飛び出たような何とも愛くるしいデザイン。学生からは不人気な穴場中の穴場。やはり、今日もほとんど人はいない。私はお気に入りの「クジラ三号」を注文し、いつも席を目指す。

浅葱色のソーダの上に、卯の花アイスが顔を出す。これを飲むためだけに、私は今日を生きている。そんな妄想に浸りながら私は檜の見える席を目指す。見覚えるある顔たちを観察しながら。ゆっくりと近づいていく。

「やっぱり。小町先生。どなたですか。」
私はクジラ三号にも負けない、爽やかな笑顔で話し掛ける。
「あら、茜ちゃん。そういえば、この後、研究発表会でしたね。急いでゼミに戻らないと。目的は果たせたし、これ以上は三千さんも怒るだろうから。潮時ね。」
大学生活の中で一番機嫌の良い小町先生を見たかもしれない。一瞬、女の顔を見せた先生はいつも以上に輝いていた。二重のくっきりとした黒い瞳は、私の胸元を見ている。はだけたシャツの隙間から少し谷間が見えていた。私は焦って身なりを整える。

「クジラ三号か。良いセンスしていますね。頭の赤鉛筆はどうかと思いますが。さながら、夏祭り。小町先生のところにも、マスコットキャラ的な人いらっしゃるのですね。」

考えるより、身体が先に動いていた。私はクジラ三号を男性の顔に思い切り振りかける。顔に青い花火が咲き乱れた。私はその後のことを覚えていない……。

「あらやだ。あの温厚な茜ちゃんを怒らせるなんて。三千さんも中々の逸材ですわね……。では、また来週。約束通り、東京美術館楽しみにしています。」

ヴァーミリオンが黒を完全に包み込む。吸血鬼は夕焼けの中にゆっくりと姿を消していく。私は顔についたクジラを舐める。やれやれ、と独り言を言いながら学食を後にした。


「……三千氏。聞いているの。三千氏。」
オネエのような声。虹宮の声が私を現実に引き戻す。新幹線の窓から見える東海道に浮世絵を重ねながら、虹宮の顔を見つめる。虹宮の顔は、かの天才絵師の顔にそっくりだ。私を置いて、虹宮はまた話し始める。

「夏木ちゃん達って、僕らと同じ歳らしいよ。なのに、凄く優秀で。地方コンペで二回も優勝しているんだってさ。僕なんて図面模写の成績は超優秀なのだけど、デッサン(パース)とか彫刻のような分野苦手なんだよね。本当にラッキーだよ。苦手分野克服の旅なんて、しかも今回は小町ちゃんと茜ちゃんもいるからテンションMaxだね。美女と巡る一泊二日の美術館旅行、生きてて良かった。」

白檀の君からクジラを浴びせられて、早くも二週間が経過した。小町先生との勝負に敗れた私は彼女のお願いを聞くことになった。いや、厳密には二回戦を告げる果し状を貰ったというべきかもしれない。彼女の目的を考えながら、私は戦利品の絵具の本のページをめくっていた。

「それにしても、夏木ちゃん。なんで僕らだけ普通車なのかね。浜名ちゃんと小町ちゃんは偉いからグリーンなのは分かるけど。茜ちゃんもグリーンとは。何か特殊能力持っている人なの。」

「ふっふっ……。虹宮さん、面白いこと言いますね。確かに、茜は優秀です。図面引くのと構造計算苦手だからコンペ向きじゃないですけど。色彩感は抜群だから、デッサン展とか絵画展からの出品依頼が沢山来るんです。あまりに多くて、最近は断ることが増えて来ましたね。小町ちゃんは『四季彩(しきさい)感覚』と呼んでいます。ただ色を調合するのではなく、変化というか……色だけで時間の流れを操作し、現実と錯覚するような没入感を与えるそうです。私には理解できませんけど。その力と新幹線の座席は別問題だと思います。」

夏木は目を細め、私の方をじっと眺めた。状況説明をしろと言いたそうな黒い瞳は、私から目を逸らさない。面倒になった私は本を閉じて口を開く。

「何もないですよ。クジラのセンスを褒めて、赤鉛筆を頭に刺していることを笑い、あとは。マスコットキャラみたいだと言ったくらいですよ。寧ろ、私の方が状況を説明してほしいくらいです。あれからも何度か見かけたので謝ろうかと声を掛けましたが、逃げられ続けています。最近、彼女を見るとドラゴンクエストの『はぐれメタル』にしか見えません。」

夏木は大声で笑い出す。ツボに入ったらしく、烏龍茶を一気飲みして呼吸を整える。

「三千、面白すぎ。茜が『はぐれメタル』か。なんか分かる。温厚に見えて、変なところで大爆発するからね。まさしく必殺の『ビッグバン』使われたって感じか。確かに怒る理由にはならないかも。三千、面白いから私が許す。」
「いいなぁ。三千氏。夏木ちゃん、もしよければ僕のことも呼び捨てか。虹宮ちゃんって呼んでくれないかな。」
「絶対いやです。」
夏木は即答する。落ち込む虹宮を想像し、私は声を掛けようと肩を叩こうとする。
「もう。夏木ちゃん。素直じゃないね。でも、そんなシャイな部分も僕は好きだよ。」
私の思いとは裏腹に虹宮は大興奮していた。浜名教授と虹宮が兄弟のように見える理由が少し分かった気がする。

「三千。私は君の好みが知りたいな。可愛い系、綺麗系、清楚系、どれが好き。」
「さぁ。強いて言えば、清楚系ですかね。」
「はい。はい。僕……いえ、わたくしは綺麗系であります。」
「虹宮さん、あなたの意見は聞いていません。へぇ。三千って、クールに見えてそういう女性好きなのか。なるほど。」
「先に言っておきますが、夏木さんは選択肢にありませんよ。さっきの選択肢を表面でなく、裏面に注目すれば見えてくるかと思いますが。温かい性格、賢い性格、穏やかな性格。あなたは表面的に清楚系だが、明らかに綺麗系(賢い性格)ですよ。あと、右手に指輪の日焼け跡もありますし。」

「さすが三千。小町ちゃんが君を狙う理由、なんとなく分かるな。」

夏木は私との距離を一瞬で詰める。白梅の香りが鼻を掠める。そして、彼女は私の耳元で優しく囁く……。


ブランクーシの彫刻「空間の鳥」は、洗練された美の終着点と言われる。鳥の羽根を一枚手に取り、風船のように膨らましたデザイン。羽根の呼吸が見えたとき、飛翔の瞬間がキャンバスから浮かび上がる。一筋の光と一瞬の飛翔が交差する名作。私の前を十人が横切って行く。十一人目以降は数えることをやめた。十一番目の男性だけは立ち止まり、今もなお私の横で鳥を眺めている。考察の時間を超え、批評の時間を通り越して、ようやく物語をつくる時間が訪れた……。

ブラッククーシの彫刻「空間の鳥」は、洗練された時を作り出すと言われる。私には「日本刀」に見える。金色(こんじき)に輝く刀の剣先は天へと向かい、天候を変化させる。この鳥を見る者を2つに分けるようにして、空間を引き裂いていく。空間の裂け目を両手で掴み、裏と表を入れ替える。やがて金色の鳥は卵となって、外の空間が見えない鳥の手(羽根)に見えてくる。そして、卵を温める母親の姿に変化する。刀、卵、母親、この3つのリズムを無限に繰り返す……。隣にいる女性は、私と同じ景色を見ているのだろうか。

「あ……。」

「どうも……。」

鳳凰が逃げて行く。慌てて私は茜に声を掛けた。
「茜さんは、この作品のどこに惹かれましたか。」
「そうですね……一瞬の……いや、刹那に心を惹かれました。三千さんは、どこに惹かれましたか。」
会話が初めて成立したことに感動しつつ、冷静さを装いながら私は応える。

「瞬間の美ですか。素敵ですね。私は一瞬を沢山集めて、別の空間を形作っていく流れそのものに感動しました。過去と現在と、未来が繰り返される印象を受けました。同じものを見ているはずなのに……。違う鳥を見ているようですね……。」
頭に思い浮かべた結末が音を立てて崩れ、私は落胆の色に染まる。

彼女はきょとんとし、微笑みながら私を誘う。

「三千さん。では、互いに思い浮かべた鳥を、せーので言い合いませんか。もし同じ鳥を思い浮かべていたら、この間のこと謝ります。もし違ったら、お互い様と言うことで。」

やはり彼女は天然何だろうか。なぜ私に有利な勝負を仕掛けるのか、分からない。気がつけば、白檀の香りが辺りを包み、私は首を縦に振っていた。彼女の優しく小さな、せーのが展示フロアに響き渡る。

「鳳凰」 「フェニックス」

私は心の中で叫んでいた。彼女の謝罪会見よりも、意見が一致したことの方が嬉しかった。ようやく彼女に近づけた。しかし、そんな想いを跳ね返すように彼女は笑って応える。

「残念でした。違う景色を見ていたようですね。混同されやすい二羽ですが、全然違いますよ。フェニックスは時間を象徴する鳥ですが、鳳凰は色彩を象徴する鳥です。人の五感を色として吸収し、その色を羽根に纏います。すべてが共鳴したとき、すべてに共感できたとき、羽根は金色に輝きます。つまり、私は感性で、あなたは論理……なのかな。なんか、織姫と彦星みたいですね。」

彼女に釣られて、私も笑い出す。些細な違いを二人で笑い飛ばし、フロア全体が金色に輝き出す。髪を結ぶ藤色のシュシュが光の色に変化していく。幻想的な四季彩の中に私は取り込まれた。その後、彼女と一緒に常設展を回り、絵画の見方を教えてもらった。歴史、構図、筆使い、絵の具の調合どれも新鮮だった。教えてもらうというよりは、彼女の話を一方的に聞いていた。漆黒の瞳と白檀の香りを見つめながら、特別講義の時間は瞬く間に過ぎていった。

無色だった私の羽根にも、ようやく色が浮かび上がる。そして、彼女は私をじっと見つめて口を開く……。

「三千氏。三千氏。」
恰幅のいい、黒いタンクトップ姿が見える。いや、パトカーかもしれない。行書体で「天下統一」と書かれた黒い野球帽が、白球を探すように全力で向かってくる。彼は息を整え、私たちに声を掛けた。

「良かった。二人とも全然見つからなくて、みんなで探していたのだよ。まさか、美術のコーナーにいるとは思わなかったよ。三千氏のことだから、きっと企画展「アルキメデスとニュートンの出会い」にいるかと……。ちなみに、夏木ちゃんは企画展「世界の名画に色彩の香りを求めて」に茜ちゃんを探しに行っているよ。なんで二人とも、わざわざ常設展を見ているの。確か、小町ちゃんからの課題は五つの特別展のどれかを見ることだったと思うけど。」

不思議な表情を浮かべた虹宮を置き去りに、私と茜は笑い出す。そして、我々は見つめ合う……。

「ちゃんと話聞かないとだよ。」
「しっかり話聞かないとですよ。」

鳳凰の羽根に新たな色彩が浮かび上がる。止まった時を包み込むようにして。新たな色の余韻に浸りつつ、今日の宿へと向かった。


民宿『鴨川』は、重要文化財に指定されている高級な宿である。今年で創業百二十年を迎え、外観からは明治期の香りが漂う。

杉の香りが私出迎える。扉を開ければ、洗練された藤の色が四方を取り囲み紫陽花園が広がる。一般的な旅館の間取りに、香りと色彩を少し加えることで別世界が見えてくる。
ふと、テーブルの上に置かれた手紙に目が止まる。「二〇一号に来られたし。」
汚い。いや、達筆な字を見て、私は「天下統一」を思い出す。やれやれ、と独り言を言いながら急いで向かう。夕食の時間まで、あと十分しかない。


ノックをしても返事がない……。念のため、ドアノブを回してみる……。鍵は掛かっていない。恐る恐る部屋に入ると、薄闇に月の光が差し込んでいた。季節外れのお月見会場が目の前に広がり、私は言葉を失う。白梅の香りが鼻先を掠る。耳元で囁く声がする。

「遅いよ……三千。」

夏木が私に優しく抱きつく。月の光が少し崩れた浴衣を照らし、汗が白い鎖骨を伝い誘惑の香りを添える。夏木の甘い吐息と、右腕に感じる二つの柔らかい感触に理性が崩れ掛かる。

「美術館でずっと探していたのよ。でも、新幹線の約束覚えていたみたいで良かった。小町ちゃんには渡さないから。」
甘い吐息が耳元から離れない。まるで生と死の狭間を往復するように、私は理性を保とうと夏木の話を逸らす。

「夏木さん。お酒でも飲んでいますか。その色々当たって。いや、約束ってなんでしたっけ。」

「もし今日、宿の部屋で二人きりになったら楽しみましょう。そんな約束よ。君の方から来たのだから……。大丈夫。」

すべてが繋がった頃には遅かった。新幹線と手紙が走馬灯のように駆け巡る。
夏木の唇が私を捉える刹那、一条の光が差し込む。
「夏木ちゃん。ご飯の時間だよ。小町ちゃんが怒っているよ。急いで。」
無神経な虹宮はノックもせずに扉を開ける。私は影に隠れ、夏木は虹宮に抱きつく。今度は虹宮を猫なで声で誘惑し、そのまま二人は部屋を出て行った。私は心臓が飛び出ていないかを確認し、外の月を見つめた。今夜の月に色彩は見えない。


浜名ラボと小町ラボの親睦会は盛り上がり、二次会に差し掛かった。私は飲み過ぎを言い訳に宿の外に出てお月見をはじめる。月の色が柳のように揺れていた。

「忙しい一日でしたね。お疲れ様でした。良い一日になりましたか。」
夜空に紅色の星が輝く。私の本心を探るようにして、宵の瞳は私を見つめる。

「小町先生、お疲れ様です。そうですね。お陰様で良い一日となりました。ありがとうございます。」
「三千さん。建築の道を選んで後悔していませんか。私には数学の道にまだ未練があるように見えます。」
「そうかもしれません。ただ、数学の道はいつもどこか独りで。ここに来てからは、教えてもらうことの方が多くて。人の考えの先を読むよりも、感じることの方が大切だと思うようになりました。この道を極めた先に、もし数学を失うことになっても素直に受け止められる気がします。」

「このまま数学の世界にとどまれば、『Tingley問題』のような世界的な課題を解決できるかもしれません。いえ、間違いなく、あなたにはその力と素質があります。」

小町先生は私に何を求めているのだろうか。私は理性で答えを導こうとしていた。首筋残った僅かな香りが、私の本能を、四季彩を呼び覚ます。刹那の輝きを瞳に宿し、私は小町先生に立ち向かう。

「確かに、力を持つ者はそれを生かすべきなのかもしれません。しかし、その呪縛で私は心を失いました。大学二年のときに学食でたまたま出会った、建築学科の女性が白いキャンバスをくれました。黒髪で、変わった飲み物を持っていたことだけは覚えています。彼女の描く線を見ていると、不思議と力が湧いてきて一歩を踏み出せました。私は弱い人間です。だから、責任よりも恩を返すことを選びます。建築の才能はないかもしれない。それでも私は、この道を歩きたいです。」

私は歯を食いしばり、月を見上げる。瞳に力を込めて小町先生を見つめ、その向こうにいる私を救った女性を見つめる。


「小町先生、ありがとうございます。今回の課題は、私の勝ちのようです。今日、東京美術館である女性が言った言葉を思い出しました。『あなたにどんな過去があろうと、未来を信じるあなたを信じます。』という言葉。人や作品の復活を最後まで信じる心が、繋がりを生み四季彩を生むのかもしれません。」

月光の雫が私の頬を伝う、今宵の闇は私に優しく、表情を少しだけ隠してくれた。小町先生はゲラゲラと笑い。女の顔を覗かせる。

「何を言っているか全然分かりませんよ。でも、そんなあなたは魅力的です。現実と抽象を、現実と虚構を自由に動ける現代の魔術師なのかもしれない。最初はあなたと新しいプロジェクト『サグラダ・ファミリア完成図』に挑戦することが目的でした。しかし、新しい目的もできました。礼を言います。」

バラの香りが一面に広がり、吐息となって私の体を包む。
服に残る白梅の香りは、月の光となって私の心を揺らす。

首筋に残る白檀の香りは、何を求める。

いつしか夜半を迎え、虫の音も聞こえない。

夜明け前に恋をして、私はずっと空を見つめていた。


朝露の輝きに、四季彩の産声を。

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