あなたと私の手が重なるとき、「初めて」の記憶が蘇る。
ポンポンポンポン……。
ポンポンポンポン……。
iPadのキーボードが優しい音を奏でる。
頭の中では、シューベルトのピアノソナタを妄想しながら。
トゥッツ、トゥッツ、トゥッツ。
チィー、チィー、チィー。
カー、カー、カー、カー。
ポーッ、ポーッ、ポーッ、ポーッ。
名前の知らない鳥たちが、新緑の桜の木に集まってきた。
見えないけど。声だけは聞こえる……。
キーボードを打つ手と、声たちが重なり合う。
時間が止まるような不思議な感覚。
ゾーン(覚醒状態)よりも、どこか「走馬灯」に似ている……。
柔らかな肌色が、私の小さな手を優しく包む。
いつからだろう、初めての感覚を忘れたのは。
いつからだろう、好きなものを適当に扱うようになったのは。
遅かったことだけは鮮明に覚えている…。
父の字は「ザ・明朝体」で、母の字は「丸ゴシックみたい」だった。
7歳を迎え、ようやく自分が人よりも劣っていることに気づく。
みんな、字が上手だった……いや、私より格段に上手だった。
上手くなりたいとは思わなかった。
話せれば伝わるし、パズルやスポーツに夢中で。
「習字」の時間が苦痛だった。
ダメな見本として、黒板に晒される…。
今風に言えば、公開処刑。
辛かった……。
でも、何をすれば上手く書けるのか…分からない。
新緑が熱を帯び、プールが恋しい季節を迎えた。
運動は大好きだ。今でも。
学級委員長の女の子が、突然、鉛筆をくれた。
ツインテールでキツネ顔の、才色兼備の彼女がくれた不思議な形の鉛筆。
字が上手くなるらしい鉛筆。
全然、ダメだった……。
あー、と頭を書きながら、彼女は私の手を掴む。
「一緒に、書いてあげる。」
あ、い、う、え、お……。
あ、い、う、え、お……。
あ、い、う、え、お……。
彼女の温かい手が、私の手を優しく包む。
何度も、何度も、書いていく……。
見えない余白が、少しずつ埋まっていく。
自分の手が勝手に動き、美しい字を描く。
ゴシックのような、柔らかいタッチで。
どんどん夢の中に入っていく……。
そして、彼女は「目を閉じて」という。
そんなことをしたら、この美しい字は見えない。
「もう手を離すよ」という言葉に勝てなかった。
素直に目を閉じる……。
シャー、シャー、シャー。
カッ、カッ、カッ。
シャー、シャー、シャー。
闇の中に音だけ……。
いや、違う。手の感覚が。
温かいだけじゃない。
優しい。誠実で。力強い。そして……。
その日から字を書くことが、好きになった。
下手な字であっても。書くことが好きになった。
だから、家で毎日練習するようになった。
楽しくて。楽しくて。下手でもいいと分かったから。
目を閉じて、イメージしながら書いていく……。
あの時の感動を思い出したいとき、レイモンド・カーヴァーの短編小説『大聖堂』を紐解く。
盲人と一人の男性が、右手を重ねて大聖堂の絵を描く作品。
カーヴァーの繊細さと、丁寧な文章表現に感動する。
物語と、カーヴァーの表現力、二重の意味(構造)で大聖堂が作られていく。
優しく伴奏する姿が、「初めての感覚、感動」を蘇らせる。
お気に入りの一冊だ。
何か創るとき、目を閉じる。
それは今でも変わらない……。
