シューマンの痛ましい最期 フォー・ビューティフル・シューマン・ライフ? 没後170年
今日 2026年7月29日 は
Robert Schumann
ローベアト・シューマン
没後170年(1856年 46歳)
にあたる日です
シューマン というと
酒井直三さんではなく
子供の頃のTVCMがすぐに
想起されてしまいます それは
崎陽軒のシューマイ と
崎陽軒のあんまん を合わせて
崎陽軒のシューマン
というくだらない語呂合わせですが
横須賀線に乗ると必ず
買っていました
あと もうひとつ連想するのが
カネボウ という 化粧品メーカーの
TVCMで 最後に必ず
Kanebo, for beautiful human life.
という奇妙なコピーが
布施明さんが結婚した女優さんが
発声していたわけではありませんが
白人女性らしき声で
読みあげられていました それが
ビューティフル・シューマン・ライフ
と聞こえてしまっていたのです
カネボウ は 墨田区鐘淵 が
発祥の地で その 鐘淵紡績 の
かねがふちボウセキ の 略
カネボウ を社名としていましたが
カップ麺まで手を伸ばした
多角経営に失敗して解体となり
現在は 化粧品部門は
花王 の子会社として残っています
13年前には 白斑事件 を起こした
ことでも話題になりましたが
これがまた シューマンの末期の言葉
Ich weiß. イッヒ・ヴァイス
知ってるからね
という 動詞 wissen の
直説法現在1人称単数形 と
形容詞としての weiß(白い) が
重なってしまうのです とはいえ
あるいは 最期の言葉は
Meine... ich kenne.
マイナ……イッヒ・ケナ
私の……(君だと)わかるよ
とされていたりもしますが
どちらも おそらく伝記作家か
誰かの創作ではないかと
kennen も懸念もされます
証言として唯一残っているのは
クララが日記に認めた
"den Wein schlürfte
er von meinem Finger
– ach er wußte,
daß ich es war ..."
のみです
デン・ヴァイン・シュリューフタ・
エア・フォン・マイナム・フィンガー
……アッハ・エア・ヴォスタ、
ダス・イッヒ・エス・ヴァア
(語順の問題があって
逐語訳が無理なので 拙大意)
ローベアトは自力で飲食ができない
状態だったので 私がワインを
指にかけて口にあてがうと
ローベアトはそれをすすった
……ああ わかったんだわ
それが私(の指)だと認識したの
【フォー・ビューティフル・シューマンズ・ライフ】
ヴィヴァルディ
春 第3楽章
12/8拍子 4♯ホ長調(嬰ハ短調)
♪【ミーー↑ファーー↓レーー↑ミーー┃
↓ドーー↑レーー↓シーーーーー】
シューマン
子供の情景 第1曲
2/4拍子 1♯ト長調
♪【ミー↑ファー┃↓レー↑ミー┃
↓ドーーレー↓┃シー】

モーツァルト
アイネ・クライネ・ナハトムジーク
第1楽章 提示部最後
4/4拍子 1♯ト長調
(当該箇所 実質ニ長調)
♪【ラーー↑レ↓ド↓シ↓ラ↓ソ┃
↑ド】◯↑ミ◯↓ド◯◯◯
シューマン
交響曲第4番 ニ短調
第4終楽章 コーダ
4/4拍子 2♯ニ長調
♪【ラーーー↑レーー↓ド┃
ド↓シ↓ラ↓ソ↑ドー】↓ソー

(右) シューマン 交響曲第4番 第4終楽章
ベートーヴェン
交響曲第7番 イ長調
第1楽章 序奏
4/4拍子 3♯イ長調
♪【ドーーー↓ソーーー┃
↓ミーーー↑ラーーー┃
↓ソーーー】↓レーーー
シューマン
交響曲第3番 変ホ長調
第1楽章 第1主題
3/4拍子 3♭変ホ長調
♪【ドーーー↓ソー┃
ーー↑ソーー↑ミ┃
ミーーー↑ラー┃
ーー↓ソーー】↓♯ファ┃
↑ソーーー↓レー┃
ーーレーー↑ミ
cf ブラームス
交響曲第1番 第3楽章
2/4拍子 4♭変イ長調
(当該箇所 実質変ホ長調)
♪【ドーー↓ソ↓ミーー↑ラ┃
↓ソーーーーーー】↑ラ
この
♪【ドーー↓ソ↓ミーー↑「ラ」┃
↓ソーーーーーー】
の「ラ」を「ファ」に落とすだけで
喜納昌吉 さんの ハイサイおじさん
になります (志村けん さんの
変なおじさん のパロでも知られる)
♪【ドーー↓ソ↓ミーー↑「ファ」
↓ソーーーーーーー 】
となります

(中) シューマン 交響曲第3番 第1楽章
(右) ブラームス 交響曲第1番 第3楽章
メンデルスゾーン
交響曲第4番 イ長調
第1楽章 第1主題
6/8拍子 3♯イ長調
♪ド┃↑ミーー↓ドード┃
↑ミーー↓ドード
シューマン
交響曲第2番 ハ長調
第4終楽章 第1主題
2/2拍子 無調号ハ長調
♪ミ┃↑ソーーー↓ミーーミ┃
↑ソーーー↓ミーーミ
(イタリア交響曲 は
1833年にロンドンで初演は
していますが メンデルスゾーン が
不十分 不完全 だと考えていて
改訂するつもりだったものの
多忙を極め 1847年に38歳で
亡くなるまでについに実現せず
出版されたのは1851年ですが
二人の交友関係から
シューマン は1830年代に
この曲を知っていたはずです)

【入水(読み Je suis)からの二年五か月】
1854年2月27日
デュッセルドルフの音楽監督を事実上
クビになって3か月ほど ビルカー通りの
自宅を雨の中 室内履きのまま抜けだし
現在オーバーカッセル橋 となっている
(当時は舟を繋ぎ合わせた 船橋)で
結婚指輪を川に投げ捨てて
手すりを乗り越え身を投げました
クララを深く愛しているのに
「指輪を投げ捨て」た のです しかし
橋の通行料を支払わずに番所前を
走りすぎるシューマンを不審に思った
橋の番人や 通りかかった船乗りら
によって即座に引き揚げられ
シューマンは一命を取り留めました

1854年3月4日 シューマンは
自分から望んで ボンのエンデニヒにある
施設に入院しました シューマンは
精神的に病んでいて
自分が犯罪者である とか
人(家族)に危害を加える不安に
苛まれていました しかし
その施設でシューマンは ほぼ毎日
浣腸され下剤を飲まされ また 反対に
止瀉薬を投与されつづけました
薬の服用をシューマンが拒絶すると
飲食物に混ぜられました
ぬるま湯の入浴だけでなく
冷水で洗浄されもしました
神経梅毒と診断されていたようです
本人も1831年に梅毒にかかり
水銀で治療を受けたことも認めています
しかし それも単なる誤診 または
別の性行為感染症だったかもしれず
とはいえ 梅毒が二期を過ぎれば感染力が
相当に低下して 配偶者にも移らない
ということもむしろ多いようで またしかし
現在ではさまざまな資料から
梅毒を否定する説も増えています
自殺未遂 入院の翌年 シューマンは
付き添い者が毒を盛っている
気が狂いそうだ 精神病院へ
連れて行ってくれ という
不安発作を起こしたとのことです
この年になってやっと ヨアヒム ブラームス
ベッティーナ・フォン・アルニムなどが
施設から面会を許可されて訪れていますが
クララは(病院側から)
面会を拒否されていました
1856年7月23日になってようやく
クララは病院のあるエンデニッヒまで
来るようにいわれ しかし 面会は
ブラームスによって控えさせられ
待機していました
クララがようやくシューマンに会えたのは
入院からほぼ2年半後 死の二日前
1856年7月27日のことでした
そのときの様子が上述した
ワインの指移し です 二日後の29日
シューマンが息を引き取ったとき
誰も看取る人はいませんでした
死因は肺炎と記録されています
31日 ボン旧墓地に埋葬されました
そのときも現在の私らからすれば
クララの行動は異様に映ります
クララの日記によれば
Johannes und Joachim
schritten dem Sarge voran,
ich hatte es vorher
nicht bekannt machen lassen,
so gingen nur seine liebsten
Freunde voran und ich dahinter,
von niemand bemerkt,
aber es war gut so,
ganz in Roberts Sinn bestimmt.
(拙大意)
ヨハネスとヨアヒムが棺の前を歩みました
私はそれを事前に公表していませんでした
彼の最も親しい友人たちだけが前を行き
私はそのうしろを誰にも気づかれないよう
歩きました でも それで良かったのです
それがローベアトの遺志に沿ったものに
相違ないはずだからです
なぜ これほど控えなければ
ならなかったのでしょうか

実質13年半の結婚生活で
子供が8人
傍からは よき夫 子煩悩な父 と
一様に伝えられています ただ
DV夫の家庭に子だくさん は
よくありがちなことで 支配欲の
あらわれともいえるかもしれません
シューマンは実際には暴力を
振るわなかったけれど いつ
振るってしまうか という不安で
家族と一緒に暮らせなくなった
というのが真相のようです
クララもクララで そんな夫に
負い目を抱かせたことに
忸怩たる思いがあったのでしょう
自分が夫に劣等感を抱かせる
因だったのでは と
音楽の夜会 (クララの)作品6 は
クララ・ヴィーク 16歳のとき(1835年)
のピアノ小品集です とくに
第2曲 ノットゥルノ(夜想曲) など
もしかすると ピアノ演奏の腕だけでなく
作曲の才能もシューマンより上だった
のではないか とまで思えるほどです
第5曲 マズルカ は のちに夫となる
シューマンの ダヴィッド同盟舞曲集
(これも シューマンのですが 作品6)
第1曲 にも引用され しかも
それを短調化すれば
作品番号は9であるものの
作曲時期はクララの 音楽の夜会
と同時期の 謝肉祭 の 第11曲
Chiarina キアリーナ そのものです
Chiarina とは Clara の
イタリア語での愛称だそうです で
ピアノ協奏曲 などにも
組み込まれている【C↓H↓A】
という【伊福部ゴジラ動機】は その
【C】【h】i【a】rina なのだそうです
ちなみに 同じく「クララ命」の
ブラームス も 交響曲第1番 の
第1楽章 第2主題のあと
コデッタに入る箇所で この
【ドシラ動機】というか【ゴジラ動機】というか
【クララ動機】を打ち出しています

それを 逆に長調化したものが
第4終楽章 アルペンホルンを模した
とされる ホルンの
♪【ミーーーーーーーーーー↓レ↓ドーー】
┃↓ソーーーーーーーーーーーーーー
です
Hoch auf’m Berg,
tief im Tal, grüß ich dich
viel tausendmal!
(一般訳)
高き山の頂、深い谷より、
君に千度もの挨拶を送る!
という 有名なクララの
誕生日祝いの手紙 にも
認めたものになっています

ちなみに
「クララ」という名前繋がりでか
チャイコフスキー くるみ割り人形
第2幕 第14曲 パドドゥ コーダ も
♪【ミー┃↓レー↓ド-┃↓ソー】
↑【ミー┃↓レー↓ド-┃↓ソー】
↑ド↑ミ┃↑ファー↓ミー┃
↓レー↓ドー┃ドー↓シー
となっています

シューマンの死の翌日
1856年7月30日に 入院先の
エンデニヒの療養所で
病理解剖が行われたそうです
当時 そうした療養所の権限で
解剖がなされていたようです
所見をかいつまむと
●頭蓋骨と硬膜が「非常に強く」
癒着していて剥がすのが困難だった
●くも膜と軟膜が慢性的に
炎症を起こしたように厚くなって
白く濁っていた
●くも膜下腔や脳室内に 異様に
多くの脳髄液が溜まっていて
水頭症的だった
●脳全体が委縮していた
とくに大脳の容積が減少して
小さくなっていた
●前頭葉付近が不自然に
硬化していた
●基底部に附近に突起状の
骨様変化が見られた
●脳の主要な血管に
硬化が見られた 脳への十分な
血流が妨げられていた可能性がある
梅毒性慢性髄膜炎 加えて
結核にも罹患していた
可能性があるようです
大脳が委縮して血流も
不十分だったので 当然に
認知機能も低下していたでしょう
なんともいたたまれません
前頭葉機能障害 だとすると
上述したように異様に多い
「他者の作品を自分のものとして」
創出する現象が 無意識のうちに
起こっていた と考えられます
シューマン といえば やはり
こどもの情景 第7曲 トロイメライ です
涙ぐまずには聴けません
クララへの思いというよりは むしろ
将来の自らの死を追悼するかのような
異様に怖いほどに美しすぎる音楽です
