第35話 江戸のサラリーマン佐吉の一日
時代劇が扱うのは事件である。何かしらの騒動があり、特別な一日を描く。我々も、旅行に行った写真など特別な一日を撮る傾向があるが、意外に日常生活のなんでもないシーンが、歴史的資料になったり、個人の記憶に刻まれたりする。そこで、江戸時代の何気ないシーンを描いたらどうかと、一人の人間の一日を描いてみることにした。
江戸時代には、現代のサラリーマン制度に似たような制度がすでに確立していたようだ。そこで、江戸のサラリーマン三井越後屋の番頭佐吉の一日を追ってみようと思う。
寛政二年、1790年。日本橋駿河町。
三井越後屋は、現在の三越につながる呉服店である。すでに創業117年の老舗だ。
1673年、三井高利が江戸に店を開いた時、奉公人は十人ほどだった。それが百年ほどの間に巨大化し、18世紀半ばには江戸本店だけで常時250人以上、多い時には342人が働いていた。京、江戸、大坂を合わせれば千人を超える。江戸時代の商店と聞いて思い浮かべる規模ではない。
午前六時ごろ、佐吉が目を覚ます。
越後屋の奉公人は店に住み込んでいる。佐吉の近くでも次々に人が起きてくる。中には十三歳の少年もいる。「子供」と呼ばれる見習いで、茶を出し、商品を運び、使い走りをしながら商売を覚える。
佐吉は十三歳で入り、十七歳ごろ手代になる。そこから何段階もの階級を上がる。平手代、上座、役頭、組頭、支配人。その上にもまだ役職がある。佐吉は組頭。現在なら課長から部長あたりだろう。佐吉三十八歳の年。ちなみに北斎は1760年生まれの三十歳。佐吉はちょっと先輩にあたる。北斎は後に、『冨嶽三十六景 江都駿河町三井見世略図』で、佐吉の働く三井越後屋を描いている。越後屋から富士が見える。
朝飯は飯、汁、菜が一つ。
豪商三井の番頭だからといって、朝から旨いものを食べているわけではない。日常の食事はかなり質素だった。
午前八時ごろ、店が動き始める。
広い店内には二十を超える売場がある。売場ごとに担当者がおり、天井からその名を書いた札が下がっている。客への対応は手代の仕事だ。
手代が客の前で反物を広げ、少年が茶を運ぶ。
佐吉の仕事は若い手代の売上を見る事である。
店員の売り上げと休みは細かく記録される。時間単位でだ。
半年ごとに一人ずつ欠勤時間を合計し、一か月平均を算出してランクを付ける。皆勤なら褒美も出る。現存する二冊の「改勤帳」には延べ4144人分が記録されている。
江戸時代から、タイムカードのような勤怠管理はあったのである。
反物の値が決まれば客は現金で支払う。越後屋の「現金掛値なし」である。
今なら当たり前だが、当時の呉服商では得意先へ商品を持って行き、掛けで売る商売が普通だった。値段も相手との交渉で変わる。越後屋は店へ客を呼び、値段を決め、現金で売った。
越後屋では反物は必要な分だけ切って売る。
これが当たった。
ところで佐吉はいくらもらっているのだろう。
組頭初年の役料は銀750匁。五年目になると1500匁。当時の公定相場では一両が銀60匁だから、12両半から25両になる。
日本銀行貨幣博物館によれば、18世紀の一両は米の値段で比べると約8万円になる。つまり年12両半なら100万円。25両なら200万円だ。
物価の仕組みそのものが違うので、現在の年収に一本化することはできない。家賃、食費、制服支給などの福利厚生を含めれば、佐吉の役料は年間約164万〜264万円相当ほどの感覚になる。現代の感覚からすると少ないかもしれないが、お金を使う場所と時間がない。しかも、役料や褒美は原則として店に預ける仕組みだった。
役料とは別に小遣い、年褒美、割銀もある。ボーナスだ。役付の手代には三年ごとの利益分配がある。利益連動の賞与のようなものだ。辞める時には元手銀という積立も受け取る。退職金だ。
佐吉は三十八歳、独身。
江戸時代なら遅いが、越後屋では、むしろここからである。
住み込みの奉公人は勝手に結婚できない。十三歳で入り、十七歳で手代になり、役付になってさらに昇進する。標準的な昇進例では、ようやく三十九歳で「別家」を許される。
そこで初めて自分の家を持ち、結婚することが許される。
結婚するにも出世が必要だったのである。
当時の余命を考えると、後二十年くらいは生きられる。現代の感覚でも結婚は遅いと思われがちだが、大会社で勤めあげた実績と信用が、結婚の条件をよくするようだ。相手の年齢は二十代半ばくらいが平均。佐吉の年齢を考えると、奥さんは後家さんになって長い期間を過ごさなければならないが、江戸時代は、離婚再婚の流動性は高かったので、再婚は問題なさそうだ。
越後屋には「批言帳」という奉公人の不始末を記録した帳面が残っている。
遊郭への外出もちゃんと記録に残されている。外出の機会を見つけて遊郭へ行き、酒を飲む。見つかれば外出禁止。夜の宿直を命じられる。悪質なら店を追い出される。
午後、佐吉の前に若い手代が帳面を持ってくる。その横を十三歳ほどの少年が商品を抱えて通る。
越後屋では享保年間から、江戸本店で働く少年奉公人を京都から採用して江戸へ送るようになった。十三歳で親元を離れる。
江戸本店には「中登り」という里帰りの制度があった。七年に一度だけ里帰りが出来る。
同じ越後屋の京本店では、休日は一年に十日ほどだった。
午後六時ごろ、客足が少なくなり、反物が片づけられる。
佐吉も仕事を終え、店の奥で夕飯を食う。
昼間は上司と部下だった男たちが、同じ建物で飯を食い、同じ建物で眠る。
若い者は、まだ一日が終わらない。読み書きやそろばんを覚えてからだ。商売をする以上、計算ができなければ話にならない。
佐吉の一日は今日も平穏に終わった。
こうして江戸時代の会社をみると、現代の会社とでは、給料の構成や、人事評価のシステムはあまり変わらないことがわかる。むしろ現代より細かく記録していた。
大きく違うのは、持ち家や結婚が会社の地位に連動していることだ。であれば、出世競争は今より激しかっただろう。
昭和の時代までは当然のように見られた、会社で長時間働き、同僚と酒を飲み、サービス残業を続け、家族と過ごす時間より、会社の同僚といる時間の方がはるかに長いという傾向は、このころの名残なのかもしれない。
佐吉の一日が、現代の制度へ、いつ、どう変わったのか。
きっかけはやはり、明治維新だった。
欧米列強を前にして、近代化の必要性は待ったなしだった。 経済の基盤を作る会社組織もその根幹をなしていた。
日本に会社というものが西洋からこの時初めて持ち込まれたわけではない。
維新の八十年近く前、佐吉が働く越後屋には、すでに千人を超える奉公人がいた。役職があり、人事評価があり、勤怠管理があり、給料があり、ボーナスがあり、利益分配があり、退職金があった。
このように、形が違うが、大規模な会社組織はすでに日本にあった。
これは、幕末に欧米列強が押し寄せてきた時、日本が対抗できる文明の基盤の上に立っていたかを見る一つの指標になるのではないかと思う。
植民地となった諸国との違いは、明治維新時に近代化への布石が出来ていたことだ。江戸時代までに築き上げた生産、流通の基盤があり、それを近代化へ向けて調整すればよかった。
すでにあった日本の会社組織から私生活を切り離し、競争する組織へ作り替えることは、会社組織を社会の中で一から作るよりはるかに容易なことであった。
とはいえ、三井呉服店が住み込みを廃止し、通勤制と給料制へ移るのは明治28年、1895年ごろである。維新から28年もたっている。
近代化の必要性を前にしても、仕事と私生活を切り離すのは大仕事だったのだろう。
ともかく、会社組織における近代化は達成された。
ただ、男同士、会社に遅くまで残る文化には、江戸時代の名残があるようだ。
飲みニュケーション の源流は江戸時代にまでさかのぼれるらしい。
