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勝利の歓喜をかたどる -ベートーヴェン『運命』交響曲を巡るいくつかの随想


 
 
ベートーヴェンの交響曲第五番、通称『運命』といえば、あまりにも有名な冒頭の主題で、クラシック音楽を代表する曲で、後世に影響を与え、研究も多くありながらも、実は今では意外と顧みられる機会が少ない作品に思えます。
 
クラシック音楽のマニアやファンであっても、『運命』が演奏されるからいそいそとコンサートに行く人や、好んで日常的に聞いたりする人は、SNSを見てもそんなにいないというか。
 
しかし、規範と呼ばれる作品の多くが、そのフォロワーよりも過激な構造を持っていたりするように、『運命』もまた、虚心坦懐に聞き返すと、他にはない驚くべき作品のように感じます。


ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン





第一楽章の冒頭、おなじみの「ジャジャジャジャーン」から、緊張感に満ちたフレーズが畳みかけられます。
 
改めてちゃんと聞いてみると、決して悲劇的なだけではない、すぐに穏やかで輝かしい旋律が交錯する、そのスピード感のよさに感心します。


 


第二楽章は舞踏会を追想するかのようなほんのりとしたメランコリアを伴う旋律から始まるも、突如として爆発し、凱旋行進曲のような単純で威風堂々とした旋律となる。

それも急に穏やかな管弦楽になると、この緩急が本当に交互に現れる。難解な章ではないけれど、うまい塩梅を見つけないと、ちょっと滑稽にもなりかねない章でもあります。
 
第三楽章も緊迫感に満ちた始まりながら、階段を駆け上がるような旋律も交錯する。嵐の前の静けさと言うべき不穏さがと途切れた旋律が漂い、何かを待ち受けている空気感が生まれます。
 
そしてそのまま圧倒的な第四楽章へとなだれ込む。輝かしい金管と弦楽の旋律が凄まじいエネルギーを発し、変奏してもそのパワーが全く途切れないのが素晴らしい。
 
凱旋行進曲というか、「勝利」という言葉の具現化にふさわしい。最後までだれることなく、圧巻のフィナーレを迎えるのです。





『運命』は、ベートーヴェンが1809年39歳と脂の乗り切った時の初演。作曲は交響曲第六番『田園』と並行して進められていました。
 
その初演コンサートは『運命』『田園』他も傑作が並ぶ驚くべき構成でしたが、詰め込み過ぎて4時間を超える長丁場のため失敗に終わった、というのは以前『田園』の記事でも書いた通りです。
 
 



その他、冒頭の主題を弟子のシントラーに聞かれて「運命が扉を叩く音だ」と答えたという話が広く人口に膾炙したものの、現在の研究ではシントラーによる捏造ではないかと疑われている。というのも、最近映画にもなったこともあり、割とポピュラーになってきました。ベートーヴェンの作品の中でも、いち早く人気曲になったこともあり、色々と話題に事欠かない作品でもあります。
 

映画『ベートーヴェン捏造』
シントラーの捏造の暴走を
日本人キャストで描く伝記コメディ



個人的に思い出すのは、この曲の演奏の映像を、中学の音楽の授業で、音楽室で大音量で聞いたことです。確かカラヤン指揮、ベルリン・フィルのドイツ・グラモフォンの映像だったと思います。
 
印象的だったのは、普段の授業ではざわついてばかりの中学生たちが、冒頭の主題から、まるで人が変わったかのように静かに映像に見入って大音響に身を委ね、第四楽章のフィナーレが終わると、まるで圧倒されたかのような拍手が起こっていたことです。
 
実演奏でない映像でも、普段はクラシック音楽なんて興味もない子供たちでも、感動させてしまう。そう、『運命』が画期的だったのは、この「誰が聞いてもすごいと思う」という側面だったのではないでしょうか。




バッハやヘンデルのバロック時代の音楽は、教会のための宗教音楽や、音楽が分かっている貴族や王を楽しませる音楽、言ってみれば贅沢なBGMでした。モーツァルトは、前半生はそうした音楽を作曲しつつ、晩年にはオペラ『魔笛』で市民のための開かれた音楽に到達しました。
 
ベートーヴェンが創造したのは、この「市民の誰もが聞いて感動できる音楽」という概念でもありました。教養が無くても理解できて、圧倒的なパワーでみんなに力を与える音楽。
 

『運命』を作曲した
30代半ば頃のベートーヴェン


何せ『運命』第四楽章では「ドレミファソラシド」をほぼそのまま使って高揚した気分にさせてしまうのですから。バロック時代の作曲家が聞けば失笑するような、何かのパロディかと思うような単純さ。しかしそれを大真面目にやってしまうことこそが、ベートーヴェンの発明でした。
 
折しもフランス革命の余波で「自由」という概念が広まり、『ラ・マルセイユーズ』を始めとする軍歌も大量に出来た頃。『運命』の強烈なリズムや口ずさめるくらい単純な旋律は、そうした軍歌の影響が大きいというのは、よく言われるところです。
 

ルイ=レオポルド・ボワイー
『サン・キュロットに扮した歌手シュナール』
カルナヴァレ美術館蔵


「自由」「平等」「博愛」という、市民のための実体のない概念に、色彩と感情を与える。その入れ物として『運命』の勝利の雄叫びのような展開は生まれたと言えるのかもしれません。




この曲の名演奏と言えば、何と言ってもカルロス・クライバー指揮、ウィーン・フィルのグラモフォン盤。第七番と併せて、そのアーティキュレーションの美しさ、透明かつ色彩豊かな音響で、この名曲に付いた手垢を洗い落として、音楽の快楽へと導きます。


 



先に挙げたカラヤンも名演奏を残しています。また単純に盛り上がれる曲であるため、逆にそうした部分を回避していく、クレンペラーのような醒めたマニエリスティックな演奏をする指揮者たちもいます。
 
ある意味クラシック音楽の核でもあり、その「勝利の感覚」をどう受け取るか、音楽家や演奏家も態度を迫られるような存在でもありました。それはかつての19世紀から20世紀後半くらいまでのような「市民」の感覚が、インターネットやSNSによって薄れてきた今だからこそ、もう一度振り返ってみても良いもののように思うのです。
 



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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