帰巣天涯孤独 【ショートショート】
男は、他者の視線を鋭く感じる性質だった。
言葉の裏に潜む感情の波、すれ違う人の無言の評価、ネットワーク上を絶え間なく飛び交う無数の思惑。
それらすべてが粘着質な蜘蛛の糸のように絡みつき、次第に彼の居場所を狭くしていった。
彼は、社会という巨大な機械の歯車として機能することに、決定的に向いていなかったのだ。
人間関係の摩擦で、その精神はひどい火傷を負っており、ただの一時も心休まることがなかった。
「誰も私のことを見ない場所へ行きたい」
他者との距離だけが、擦り切れた魂を救う唯一の処方箋に思える。
彼は都心のアパートを引き払い、最小限の道具だけを背負って、文明の境界を越えた。
向かった先は、地図にすら等高線がまばらにしか記されていない深い森。
靴底がアスファルトから腐葉土へと変わり、やがて人の気配が途絶えたことを確信した時、男は苔だらけの巨大な岩肌に、ぽっかりと開いた穴を見つけた。
雨風を凌ぐには、十分な広さと深さがある。
「ここが、私の巣だ」
冷たい岩に背を預け、長い息を吐く。
耳には、梢の揺れる乾いた音と、遠くの沢のせせらぎだけが届いた。
誰の視線も、誰の理屈も、誰の感情もない。
男は初めて、静寂と孤独という至上の安らぎを手に入れたのだった。
しかし、その安らぎも長くは続かなかった。
男が森での生活に順応し、自らの内にある敵意や欲望、焦燥感といった騒音を洗い流した頃から、事態は思わぬ方向へ転がり始めたのだ。
気配を消して、風景の一部のように座り続ける男を、森の生き物たちが安全な自然物として誤認したのである。
最初は、肩に止まった一羽の小鳥。
小鳥は男の肩を古い切り株だとでも思ったのか、しばらく羽繕いをして、飛び去っていった。
男は驚いたが、害はないと放置した。
それが間違いだった。
翌日には、リスが足元で木の実をかじり始め、数日後には野ウサギが男の膝の上で身を寄せて眠るようになった。
男が微動だにしないため、無垢な本能に従って生きる動物にとって、彼は天敵から身を隠せる絶好の安全地帯だったのだ。
やがて、小鹿が男の隣で草を貪るようになり、タヌキの親子が岩穴の隅で居座るに至った。
孤独の巣は、活気と親愛に満ちた、生命の交差点と化す。
チュンチュン、カリカリ、キューキューという命の音が絶え間なく鼓膜を叩き、獣たちの湿った体温が岩穴に充満する。
「違う。求めていたのは、これじゃない」
動物たちに悪気はない。
むしろ、好意と信頼を寄せられていることはわかっていた。
だが、男の繊細な精神にとって、他者(それが他生物であっても)から向けられる親愛すらも重圧だった。
彼らの無垢な温度は、男にとって過剰な包容であり、息苦しく、騒々しいものなのだ。
男はたまらず、自らの巣と定めたはずの岩穴を飛び出す。
再び、安らぎを探す放浪が始まった。
森を抜け、見渡す限りの荒野へと向かった。
しかし、そこでも事態は同じ。
乾いた大地にじっと座り込んでいると、日陰を求めてトカゲやヘビが男の足元に集まり、夜になれば砂漠のキツネが温もりを求めて寄り添ってきた。
「ここも違う」
ならばと、男は小舟を手に入れ、絶海の孤島へ渡る。
だが、波打ち際に腰を下ろしていると、ウミガメがすぐ隣で産卵し、海鳥たちが頭上に巣を作り始めた。
どこへ行っても、大自然の営みは男を放っておいてくれない。
人間社会の毒を抜くほど、自然界は彼を仲間として、温かく迎え入れようとする。
「頼むから、何者も私に関わらないでくれ」
海鳥の鳴き声に耳を塞ぎながら、男は叫んだ。
男にとって、生命の繋がりは残酷だった。
命ある場所には、必ず関係が生じる。
完全に独りになることなど、この地球上では不可能なのだろうか。
絶望に打ちひしがれた男は、力なく元来た道を引き返した。
幾度もの逃避の果てに、男が最後に辿り着いたのは、最も忌み嫌っていたはずの場所だった。
数百万人がひしめき合う、鋼鉄とコンクリートのジャングル、巨大都市の片隅である。
男は、駅からほど近い場所にある、集合住宅の一室を借りた。
築十数年、規格化された部屋が蜂の巣のように並ぶ、狭いワンルーム。
男は部屋の中央に座り、壁に背を預けた。
壁の向こうから、隣人の生活音が微か届く。
咳払い、テレビの笑い声、シャワーの水音。
窓の外を覗けば、血管を流れる血のような車列と、互いの存在を視界に入れず、ただすれ違うだけの群衆の姿。
誰も、男のことなど気にしない。
男は、隣人がどんな人か知らない。
隣人もまた、彼に微塵の興味もないだろう。
もし男がこの部屋で静かに息を引き取ったとしても、家賃の滞納や、異臭が漏れ出すまで、誰も彼の他界に気付くことはないはずだ。
そこにあるのは、無関心。
自然界の動物が与えてくれた親愛や温もりは、ここに一切ない。
人々は互いを認識しながらも、互いの領域には踏み込まない。
無数の他者が数十センチの壁を隔てて存在しているというのに、男と彼らの間には、目に見えない分厚い壁がそびえ立っている。
「はあ」
男は、胸の奥から心地よい息を吐き出した。
冷たい壁に寄りかかりながら、男はかつてない安らぎを感じていた。
期待もない。
敵意もない。
愛情や親愛を押し付けられることもない。
人間社会が作り出す他者への無関心こそが、男の繊細な魂を守る最強のバリアだったのだ。
外を走る車のエンジン音や、遠くで鳴り響くパトカーのサイレン。
それは、森の静寂や小鳥のさえずりよりも、はるかに心地よい子守唄だった。
ゆっくりと、男は目を閉じる。
コンクリートの箱庭の中で、数百万の群衆の波に包まれながら。
彼はようやく、誰にも干渉されない巣の中で、穏やかなまどろみに落ちていった。
