危機聞き機器 【ショートショート】
極度な心配性の私にとって、耳骨に埋め込んだ極小のリスク予測デバイス『プロビデンス』は、臓器の一部と呼んでも過言でなかった。
周囲のあらゆる危険を察知し、耳元で囁くように警告を与えてくれるこの画期的な機器のおかげで、私の人生は順風満帆だった。
交差点での暴走車の接近、巧妙な手口で近付いてきた詐欺師の微細な嘘、さらには所有する仮想通貨の暴落の兆候に至るまで、プロビデンスはすべての危機から私を遠ざけてくれる。
私はいつしか、己の目や耳、直感よりも、この小さな電子頭脳の囁きを盲信するようになっていた。
その夜も、私は生体認証ロックと防弾ガラスに守られた堅牢な別荘の一室で、極上のワインをじっくり味わっていた。
いくら目の前の危機から逃れようと、生まれつきの心配性のせいで、ストレスからは逃げられない。
そんな私には、こういう一人きりの空間が必要なのだ。
保障された安全。
孤独という安心。
その気持ちにあぐらをかきながら、くつろいでいた矢先の出来事だった。
『警告。かつてない致命的な危機が接近中』
プロビデンスの冷たい音声が、頭蓋骨に直接響く。
跳び上がった私はワイングラスを取り落としてしまった。
高貴な赤い液体が絨毯に染み込んでいく。
「なんだと、強盗か、テロリストか」
慌てて寝室のセキュリティモニターを確認するが、窓の外にも廊下にも人影はない。
各所に張り巡らせた赤外線センサーも沈黙を保っている。
『警告。致命的な危機が急接近中。ただちに対処してください』
「だから、どこから何が来ているんだ」
いつもなら「右後方より車両接近」「着信相手の虚偽発言確率98%」と、具体的な情報と数値を提示するはずの機器が、なぜか今回に限っては脅威の正体を明かさない。
ひたすらに危機が迫ると繰り返すのみだ。
得体の知れない恐怖に急き立てられ、私は何も持たずに寝室の隠し扉を開け、地下のシェルターへと逃げ込んだ。
厚さ五十センチの鉛とコンクリートに囲まれたこの空間なら、外部からの物理的干渉をほとんど遮断できる。
だが、息を潜める私の耳元で、機器はさらに狂ったように喚き続けた。
『警告! 致命的な危機! 回避不能の事態が接近中!』
かつてない大音量の警告が脳内をガンガンと揺らす。
鼓膜が破れんばかりの轟音(実際には骨伝導だが)に、私は両手で頭を抱えて叫んだ。
「どうしろっていうんだ。ここは密室だぞ。これ以上、私はどこへ逃げろっていうんだ!」
防音を施された無機質なシェルターの中で、私はパニックに陥りながら見えない敵に怯え続けた。
心臓が激しく高鳴り、大量の冷や汗が全身から噴き出す。
シェルターの中央に居ても、端に寄っても、けたたましい警告音は一秒たりとも鳴り止むことはなかった。
結局、何事もないまま、夜明けの時間になるまで警告は続いた。
陽光が地上の部屋に差し込む頃、ようやく『危機は去りました』というアナウンスと共に、機器は嘘のように沈黙したのだ。
私は疲労困憊の体を引きずってシェルターから這い出すと、すぐさまメーカーのサポートセンターへ怒りの電話を入れた。
あんなふざけた誤作動を起こしたのだ。
それなりの慰謝料をもらわないと気が済まない。
「おかげで一睡もできなかったぞ。パニックで私を殺すつもりか。いったいどんなポンコツプログラムを組んだら、何もない密室でデタラメな警告を出し続けるんだ!」
電話口のオペレーターは、私の機器のクラウド通信ログをしばらく照会していたが、やがて深く息を吐き、静かな声でこう告げた。
「お客様、昨夜の危機履歴を確認いたしました。結論から申しますと、プロビデンスは正常に作動しておりました」
「正常だと。朝まで喚き散らしただけだ!」
「それなのですが、昨晩、お客様の生体データに異常な数値が記録されておりました。お客様は、心不全を引き起こし、そのまま亡くなる寸前だったのです」
「……え」
「機器は脅威を外部ではなく、お客様自身の肉体と特定しました。しかし、プロビデンスは心臓の停止を直接防ぐことはできません。そのため、意図的に正体不明の警告を出し続けることで、お客様に極度のパニックとアドレナリン分泌を誘発し、無理やり覚醒させ続けたのです」
受話器を握りしめたまま、私は己の胸に手を当てた。
「お客様、お休みとは存じますが、本日は病院の方へ行かれたほうがよろしいかと。プロビデンスは、あくまでも一時的な死亡危機を回避しただけですので」
心臓は今も、昨晩の余韻で、力強くドクドクと脈打っている。
私を救ってくれた頼もしい相棒は、今日も耳元で、静かに次の危機に備えているのだろう。
またあの騒がしい警告が鳴り響かないことを、ただ祈り続けるのみだ。
