スナック兎 * 絵になるネタ
槙野は朝が遅い。
カオルはもっと遅い。
だからこの家では、先に起きた方がコーヒーを淹れるという暗黙のルールが自然に消滅した。
どちらも自分の分だけ淹れる。
三年前くらいから、槙野はカオルの家に居候状態になっていた。
カオルの店に柄の悪い連中が来た時に、珍しく素面の槙野が凄んだことで、連中を黙らせた。
カオルとしては用心棒になると見込んだが、店の役に立ったのはその1回きりだ。
その後も飲んでは酔いつぶれて閉店まで寝込んでしまう槙野に、
「飲んだくれるのをやめるなら」
といって、家に泊めてやった。
それ以来、槙野は酒を飲むのを控えるようになり、少しは真面目に記事を書こうとするようになった。
書こうとはしている。
競馬新聞のコラムや、週刊誌の穴埋め記事を月に何本か書く。
それで家賃と酒代にもならない金を稼ぎながら、大きなネタを探している。
探しているが、見つからない。
カオルには「良い記事が書けそうだ」と何度も言っている。
そう言って、書けないまま戻ってくる。
カオルは「ふうん」と言うだけで、それ以上訊かない。
その日も昼前に槙野は出かけた。
新橋の編集部に企画書を持ち込むためだ。
持ち込み先はフリーランスの記者が出入りできる数少ない雑誌で、編集長の須藤とは十年の付き合いがある。
十年の付き合いで通った企画は四本。
「また公共工事?」と須藤は企画書の一枚目で言った。
二枚目はめくらなかった。
須藤は企画書を裏返しに置いた。
これは預かるという意味でもあるし、読まないという意味でもある。
夕方、槙野は新橋の立ち飲みで缶ビールを一本だけ飲んで、電車に乗った。
車内で携帯を開くと、須藤からメッセージが来ていた。
「建設業界やるなら、もうちょっと絵になるネタ持ってこい。事故とか不正とか、わかりやすいやつ」
槙野は返信しなかった。
わかりやすいやつが簡単に手に入るなら、フリーランスをやっていない。
スナック兎に戻ると、カオルが開店準備をしていた。
グラスを並べる手を止めずに「どうだった」と訊いた。
「良い記事が書けそうだ」
カオルは手を止めなかった。
「ふうん」
槙野は黙ってノートパソコンを開いた。
(つづく)
以下のマガジンに収録しています。
