スナック兎 * 餌付け
十日目に、男は同僚と二人で来た。
五十代の、よく喋る方の男と一緒だった。
テーブルに座った。
槙野はカウンターで食べた。
目は合わせなかった。
十一日目。
また一人だった。
カウンターに座り、槙野の一席隣に座った。
一席になった。
「今日も生姜焼きですか」と男が言った。
「いや、今日はサバ味噌にしようかと」
「サバ味噌もうまいですよ。ここ」
定食が来るまでの間、男はテレビを見ていた。
槙野はふと訊いた。
「お仕事、このあたり?」
「ええ。すぐそこのビルです」
「建設関係のお仕事ですか」
男は自分の作業着の胸元を見た。
ロゴが見えている。
「ああ、そんなところです」
「いま、建設関係のことを書いていまして」
槙野は胸ポケットから名刺を出した。
「文筆業 槙野修一」とだけ書いてある。
住所も電話番号もない。
記者ともライターともつかない。
作家の名刺に見えなくもない。
男は名刺を受け取って、一度裏返した。
裏は白紙だった。
「今度、一杯やりながら、話を聞かせてもらえませんか。建設業界のことを勉強させてほしいんです」
「作家先生に頼まれたんじゃ、断れないですね」
男は笑った。
悪い顔ではなかった。
「良いですよ、今夜なんか、どうです?」
「今夜。ありがたいです」
「じゃあ六時半に、ここの角の居酒屋で。知ってます?」
「分かります」
男は残りの味噌汁を飲み干して、席を立った。
出際に振り向いて言った。
「三島です。名刺もらったんで一応」
「三島さん。よろしくお願いします」
三島が出て行ってから、槙野は携帯を出さなかった。
須藤に報告するのは会ってからでいい。
まだ何も聞いていない。
六時半。
角の居酒屋は、昼の定食屋より少し暗い。
三島はスーツに着替えていた。
作業着のときとは印象が違う。
管理部の内勤であることが、服装で分かった。
生ビールを二つ頼んだ。
枝豆が出てきた。
「建設のことを書いてるって言ってましたけど、どんなの書かれるんですか」と三島が訊いた。
「いろいろですよ。頼まれたものを書いたり。今は自分で調べてるものがあって」
「小説とか?」
「まあ、そういうのに近いかもしれないです」
槙野は笑って、それ以上は言わなかった。
三島もそれ以上は訊かなかった。
物書きという人種が何を書いているかには、たいていの人間はそこまで興味がない。
「へえ」で終わることを槙野は知っている。
「三島さん、管理部って大変でしょう。現場の数字を全部見るわけでしょう」
「まあ、見るっていうか、合わせるっていうか」
「それ、相当な仕事量じゃないですか」
「どうなんですかね。比べたことがないから分からないですけど」
「俺なんか数字が全然だめなんで、ああいうのきちんとやれる人は尊敬しますよ」
三島は悪い気はしなかったようで、少し姿勢が緩んだ。
「いやいや、地味ですよ。誰にも感謝されないし」
「感謝されないのがいちばんきついですよね」
「それはほんとにそう」
三島はビールを飲み干した。
槙野は店員を呼んで、二杯目を頼んだ。
自分の一杯目はまだ半分残している。
「もう一杯いきましょう。枝豆も追加で」
「すみません、ごちそうになっちゃって」
「いえいえ。話聞かせてもらってるんですから」
二杯目が来た。
三島の飲み方が少し速くなっている。
槙野は自分のグラスに口をつけるだけで、ほとんど減らさなかった。
焼き鳥が来た。
槙野が頼んでいた。
「三島さん、長いんですか。今の会社」
「十二年になります」
「十二年。もうベテランじゃないですか」
「ベテランっていうか、抜けられないだけですよ。中小はどこもそうだと思いますけど、辞めたら代わりがいないから辞められない」
「それ、会社にとっては三島さんがいないと困るってことでしょう」
「困るくせに大事にしないんですよ」
三島は自分の言葉に少し驚いたような顔をした。
言うつもりがなかったことが口から出た、という顔だった。
槙野はそこに乗らなかった。
乗らずに焼き鳥を食べた。
「ねぎま、うまいですね」
「ああ、ここの焼き鳥はいいんですよ」
三島が三杯目を自分で頼んだ。
槙野は頼まなかった。
自分のペースで飲んでいるように見せて、実際にはほとんど飲んでいない。
三杯目の半ばで、三島の声が少し大きくなった。
「大事にしないっていうのは、つまり、結局社長なんですよ」
「社長」
「うちの社長は何でも自分で決めるんです。人事も、予算も、現場のことも。管理部が数字を出しても、社長が『やる』って言ったらやる」
「ワンマンなんですね」
「ワンマンっていうか、会社が社長の持ちものなんです。社員は全員借りもの。いつでも替えがきくと思ってる」
三島は焼き鳥の串を皿に置いた。
「最近なんか特に、おかしなことになってて」
「おかしなこと?」
「いや——」
三島は口をつぐんだ。
一瞬だけ素面の目に戻った。
「すみません。会社の話ばっかりしちゃって」
「いやいや、面白いですよ。こういう生の話ってなかなか聞けないんで」
「面白いですかね」
「面白い。ほんとに」
槙野は笑った。
三島も笑った。
しかし「おかしなこと」の先は出てこなかった。
三島は自分でブレーキを踏んだ。
酔ってはいるが、踏めるだけの理性は残っている。
今日はここまでだ、と槙野は判断した。
「三島さん、また飯でも行きましょう。昼でも夜でも」
「ぜひ。こっちこそ。物書きの先生と飲むなんて初めてですよ」
三島は伝票を取ろうとした。
槙野が先に取った。
「取材みたいなもんですから」
「ああ、すみません。じゃあごちそうさまです」
三島が出て行ったあと、槙野は残りのビールを飲み干した。
「おかしなこと」。
三島は言いかけて止めた。
止めたということは、言いたいということだ。
次に会えば、出てくる。
携帯を出した。
須藤に電話する前に、カオルにメッセージを送った。
「今日は遅い。泊まらない」
既読がついた。
返信はなかった。
前にも同じことがあった。
同じメッセージを送って、同じように既読だけがついて、返信が来なかった。
槙野はそのことを覚えていなかった。
(つづく)
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