スナック兎 * 六千字
槙野はその夜、駅前の24時間営業のファミリーレストランにいた。
十二月の夜だった。
終電はとうに過ぎている。
鞄にパソコンが入っている。
原稿の途中だった。
五千二百字目あたりまで来ていた。
始発まで三時間ほどあった。
眠れるはずがなかったが、テーブルに突っ伏して目を閉じた。
閉じると、カオルの声が聞こえた。
あたし、知ってんのよ。ぜんぶ。
あの男の子どもを産んだのよ。あたしが。
槙野は目を開けた。
考えがまとまらず、ソファーに沈み込んだ。
朝になってモーニングを頼んだ。
トーストをかじりながらパソコンを開く。
原稿の続きを書こうとした。
書けなかった。
カオルが福原の子を産んでいた。
その子が直人だった。
直人は福原の養子として育てられ、カオルは手切れ金でスナック兎を開いた。
槙野が追いかけていた古川建設の事故隠蔽。
その会社を動かしている男が、カオルの人生を壊した男でもあった。
書けない理由は明確だった。
この記事を出せば、福原の周辺が掘り返される。
カオルが三十年かけて埋めた過去が、掘り起こされる。
カオルは「やめろ」と言った。
俺は聞かなかった。
トーストが冷めた。
コーヒーを飲み干して、レストランを出た。
須藤に電話したのは昼前だった。
「原稿、あと少しで仕上がる」
「クリスマス進行だぞ。間に合うのか」
「間に合わせる」
「場所はどこにいるんだ」
「いろいろ」
須藤は黙った。
須藤は長い沈黙をしない男だった。
「お前、大丈夫か」
「大丈夫です。原稿を仕上げます」
「場所がないなら、うちの会議室使っていいぞ。夜は誰もいない」
「ありがとうございます」
編集部の会議室を借りて、槙野は原稿を仕上げた。
三日かかった。
長テーブルの端にパソコンを置き、缶コーヒーを飲みながら書いた。
夜は誰もいない。
蛍光灯の音だけが鳴っている。
新聞社にいた頃を思い出した。
七年いた。
書くたびに、出せるものと出せないものに分けられた。
出せるものは誰にでも書ける記事だった。
出せないものが、槙野が本当に書きたい記事だった。
辞めた理由を、人には「自由に書きたかった」と言ってきた。
嘘ではない。
本当は、書いたものが消えることに疲れたのだ。
画面の上にある原稿が、「出せない」の一言で無になる。
あの感覚に耐えられなくなった。
フリーになれば自由に書ける。
そう思った。
思って十年経った。
自由に書ける代わりに、どこにも出せなくなっただけだった。
原稿は六千字で仕上がった。
須藤に渡した。
須藤は椅子に座って、画面を二回読んだ。
「いい原稿だ」
槙野が須藤に褒められたのは、十年の付き合いで初めてだった。
「年明けの第二号に載せる。校了は一月十日」
「分かりました」
「それまで体を休めろ。お前、顔色が悪い」
「もともとです」
「そうだったか」
須藤は笑った。
槙野も笑った。
年が明けた。
一月五日。
須藤から電話が来た。
声が違った。
「記事は止めろと言われた」
「止めろ?」
「福原側から圧力がかかった。広告を引き上げると。うちの規模じゃ持たない」
「須藤さん」
「もう少し粘ってみるが、止まってもお前のせいじゃない」
槙野は黙った。
「念のため他の媒体にも持ち込め。俺の名前は使っていい」
「……はい」
「いい原稿なんだ。それは本当だ」
記事が止まる。
十年前と同じ言葉が、十年後に戻ってきた。
新聞社の中にいても外にいても、同じだった。
三社に持ち込んだ。
一社は広告の関係で断られた。
もう一社は企画書の段階で首を振られた。
三社目は広告に依存しない硬派な雑誌だった。
ここなら、と槙野は思っていた。
編集者は原稿を最後まで読んだ。
「裏付けは十分だと思います。ただ、うちで出すと、著者のあなたにリスクが集中する。守ってやれる体制がうちにはない」
守ってやれない。
新聞社なら組織が記者を守る。
フリーランスを守る組織はない。
金が減っていった。
競馬新聞のコラムが切れた。
ネットカフェを転々とした。
春になった。
ファミレスの窓から桜が見えた。
去年の春は、カオルと桜を見に行った。
カオルは「花見って柄じゃないのよ」と言いながら、立ち止まって上を見ていた。
槙野はその横に立っていた。
何も言わずに立っていることが、あの頃は自然にできた。
今はその場所がない。
夏になった。
ネットカフェの個室で、槙野は原稿のファイルを開いた。
六千字。
いい原稿だ、と須藤が言った。
いい原稿が、どこにも出ない。
ファイルを閉じた。
消せなかった。
消してしまったら、この十年やってきたことの全部が消える。
パソコンを閉じて、天井を見た。
ネットカフェの天井は低い。
スナック兎の天井はもう少し高かった。
九月になった。
〔槙野修一の日誌 9月某日〕
カオルがやめろと言ったとき、俺は聞かなかった。
上司が書くなと言ったときは従った。
カオルの言葉は聞けなかった。
カオルが正しかったからだ。
正しいことを書こうとした。
正しい言葉を聞けなかった。
たぶん、俺はそういう男だ。
原稿はまだパソコンの中にある。
消せないまま、どこにも出せないまま、生きている。
(つづく)
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