スナック兎 * 深入り
スナック兎に、槙野が珍しく開店前からいた。
カオルがグラスを出しているうちに、槙野は勝手にカウンターの雑巾で台を拭き始めた。
「手伝ってくれんの」
「たまには」
カオルは特に喜ばなかった。
槙野がいないことに慣れ始めていたから、いることの方がかえって落ち着かない。
開店してすぐ、常連が二人来た。
岡ちゃんと、月に一度くる保険の外交員の女。
カオルは二人の間を行き来しながら、手際よくグラスを出し、つまみを並べ、話を合わせた。
こういう夜のカオルを、槙野は好きだった。
客がいるときのカオルは声が少し高くなる。
作っているのではない。
客のために出す声がカオルにはあって、その声は二十七年この店をやってきた体から出ている。
二人が帰ったあと、槙野が口を開いた。
「古川建設の社長の名前が分かった」
「ふうん」
「福原誠一郎っていう男だ」
カオルは棚のボトルを並べ替えていた。
手は止めなかった。
「社長自身が事故の隠蔽に関わってる可能性がある。三十年近く前の事故の時点で、もう社長だったはずなんだ」
カオルは瓶のラベルを正面に向けた。
「怖くないの」
「何が」
「そういう会社の社長を相手にするんでしょ」
「怖いかどうかは調べてから考える」
「しゅうちゃんはいつもそう。順番がおかしいのよ」
「いつもじゃないよ」
槙野は笑った。
カオルは笑わなかった。
「ねえ。深入りしない方がいいんじゃないの」
「まだ深入りしてない」
「してからじゃ遅いってこともあるかもよ?」
カオルの声が低くなっていた。
客に出す声ではなかった。
槙野はそれに気づいたが、意味までは汲めなかった。
「大丈夫だよ。まだ何も掴んでない。それより、このスクープで当てれば、一攫千金かもな」
槙野はカオルを後ろから抱き、胸に手を伸ばした。
カオルが振り向き、槙野の唇に人差し指を当てた。
「こういうの、イヤ」
そう言って大きな音を立てて洗い物を始めた。
カオルは機嫌を損ねたようだ。
槙野は所在なげにノートパソコンを開き、画面を見るふりをした。
(つづく)
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