見出し画像

スナック兎 * 嫌な予感

三島から連絡が来ない日が続いた。
槙野は品川の定食屋にも行かなかった。
「少し時間をください」と言った相手を追えば、二度と戻らない。
待つしかない。
待つことも取材のうちだと、槙野は自分に言い聞かせた。

昼間、やることがなくなった。
競馬新聞のコラムを一本書いた。
週刊誌の穴埋め記事の依頼が来たので、それも書いた。
どちらも一日で書けた。
古川建設の取材を始めてから、こういう仕事が速くなっている。
頭の中に本当に書きたいものがあると、それ以外の仕事は手が勝手に動く。

スナック兎にいる時間が増えた。
開店前からカウンターに座って、パソコンを開いている。
カオルはその横で準備をしている。
以前と同じ光景のはずだった。
しかし何かが違っていた。

カオルが喋らなくなった。
喋らないのではなく、喋りかけて止めることが増えた。
「しゅうちゃん」と呼んで、槙野が「うん」と言うと、「なんでもない」と言う。
三日で二回あった。

「なんでもないが多いな」と槙野が言った。
「そう?」
「何か言いたいことがあるなら言えよ」
「ないわよ。なんでもないって言ってるでしょ」

カオルの語尾が強かった。
槙野はそれ以上訊かなかった。

開店後、客が一人も来ない夜があった。
カオルと槙野がカウンターの内と外にいるだけの夜。
前にもこういう夜はあった。
「静かだね」と槙野が言い、カオルが「静かな方がいい日もある」と返した夜。
しかし今夜は槙野もその会話を始めなかった。

カオルはカウンターを布巾で拭いた。
端まで来て、手が止まった。

焦げ跡。
開店して最初の年に来た男がつけた跡だった。

名前は長谷川といった。
毎晩来て、毎晩しつこくして、体の関係を断った夜に煙草を押しつけた。
カウンターに、ではない。
最初はカオルの手に押しつけようとした。
避けた先がカウンターだった。
それきり長谷川は来なくなった。
焦げ跡だけが残った。

直そうと思えば直せた。
直さなかった。
もう半分以上の人生をこの店で過ごしたことになるのに。
なぜ直さないのか、教訓めいたものだったかもしれない。

十一時にカオルが言った。
「閉めるね」
「早いな」
「誰も来ないし」

カオルは蛍光灯を一本消した。
店が半分暗くなった。

「しゅうちゃん」
「うん」
「あの建設会社の話、まだ続けてるの」
「続けてる」
「どこまでやるの」
「分からない。まだ取材の途中だから」

カオルはカウンターの内側に立ったまま、槙野を見た。
正面から見たのは久しぶりだった。
最近のカオルは槙野を見ないで喋ることが多かった。

「やめてほしい」

槙野は顔を上げた。
「なんで」とは訊かなかった。
カオルの目を見て、訊けなかった。

「やめてほしいって、取材を?」
「そう」
「カオル、なんで——」
「理由はないわよ。ただ、嫌な予感がする」
「嫌な予感って」
「あたし、そういうの当たるのよ」

カオルは蛍光灯をもう一本消した。
カウンターの上にパソコンの画面だけが光っている。

「カオル。俺にはこの仕事しかない」
「知ってるわよ」
「知ってるなら——」
「知ってるから言ってんの」

カオルは残りの蛍光灯を消して、階段に向かった。
途中で振り向いた。
暗い店の中で、パソコンの光がカオルの顔を半分だけ照らしていた。

「電気、つけといていいよ。どうせ忘れるでしょ」

嘘つき、はもう戻ってこなかった。

その翌日、三島から電話が来た。
「槙野さん。一つだけ、確認したいことがあります」
「なんですか」
「あなた、本当は記者でしょう」

槙野は一拍置いた。

「元記者です。今はフリーで書いてる」
「新聞社にいたんですか」
「いました」

電話の向こうで三島が息を吐いた。

「やっぱりそうか」
「三島さん。怒ってますか」
「怒ってない。ただ、騙されてたのかなと思って」
「騙したつもりはないです。ただ、最初から記者だと言ったら会ってもらえなかった」
「それはそうですね」

沈黙があった。
長い沈黙ではなかった。

「もう一度だけ会えますか」と三島が言った。
「会ってくれるんですか」
「見せたいものがあるんです」

槙野の心臓が打った。

「いつがいいですか」
「来週の水曜。場所はそちらで決めてください。品川から離れたところで」
「分かりました」

電話が切れた。
見せたいもの。
マニュアルだ。
槙野にはそう確信があった。

須藤に電話した。
「三島が物を見せると言ってる」
「何を」
「たぶんマニュアルだ。事故対応の」
「たぶん、か」
「来週会う。確認する」
「気をつけろ。ここからは向こうもリスクを取ってる。リスクを取る人間には意図がある」
「分かってます」
「お前のその『分かってます』が一番信用ならない」

須藤は電話を切った。
乱暴に。


三島が動く。
来週、何かを見せてくれるらしい。
マニュアルなら話が変わる。

カオルがやめろと言った。
理由は言わなかった。
嫌な予感がすると言った。
カオルの勘は当たることが多い。
新聞社にいたときなら、やめただろう。
上に言われて、書きかけの原稿を引っ込めた。
あのとき引っ込めなかったら、俺は今どうなっていたか。
分からない。
でも、もう引っ込めない。

槙野修一の日誌 11月25日


(つづく)


※登場人物

以下のマガジンに収録しています。


#中編小説
#連載中編小説
#創作
#社会派
#ハードボイルド
#兎年のキーホルダー
#スナック兎

いいなと思ったら応援しよう!