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スナック兎 * 書ける材料

水曜日。
槙野は大井町の、前回とは別の居酒屋を指定した。
駅から五分の、チェーンの居酒屋。
人が多くて紛れやすい。
個室はない。
個室だと密談に見える。
カウンターの端を取った。

三島は定時に来た。
スーツの内ポケットが少し膨らんでいた。
座って、生ビールを頼んだ。

「元記者なんですよね」と三島は言った。
「元です。今はどこにも属してない」
「古川建設のことを書くんですか」
「書ける材料が揃えば、書きます」
「書いたらどうなるんですか。会社は」
「分かりません。それは記事の内容と、出し方による」

三島はビールを一口飲んだ。

「俺がこれを渡したってことは、ばれますか」
「俺は出所を明かしません。それは約束します」
「約束、か」

三島はビールをもう一口飲んだ。
それから内ポケットに手を入れた。
A4の紙が四つ折りにされていた。
二枚。
テーブルの下で槙野に渡した。

「コピーです。原本は会社にある」

槙野は受け取って、膝の上で広げた。

一枚目。
「現場事故発生時の対応手順書」
日付は十五年前。
改訂番号が振ってある。
第三版。
つまり少なくとも二回は改訂されている。

手順が箇条書きで並んでいる。

一、現場責任者は直ちに作業を中止し、負傷者の救護にあたる。
二、現場責任者は本社総務部に電話で第一報を入れる。
三、総務部は直ちに顧問弁護士に連絡し、現場への派遣を要請する。
四、顧問弁護士は現場責任者と面談し、事故の経緯を聴取する。
五、聴取内容にもとづき、事故報告書の草案を作成する。

現場事故発生時の対応手順書 第三版 一枚目 

槙野は五番を二度読んだ。
「聴取内容にもとづき」。
警察でも労基署でもなく、会社の弁護士が最初に話を聞く。
そして弁護士が報告書の草案を作る。
事故報告書を現場が書くのではなく、弁護士が書く。

二枚目。
手順の続きだった。


六、事故報告書は本社総務部長の承認を経て、関係機関に提出する。
七、関係機関への対応は顧問弁護士が窓口となる。
八、報道機関からの問い合わせには一切応じない。対応は本社広報を通じて行う。
※責任範囲の特定については別紙参照

現場事故発生時の対応手順書 第三版 二枚目

八番の下に、手書きの注記があった。
コピーだから筆跡までは分からないが、誰かが書き加えたものだった。
「責任範囲の特定については別紙参照」

別紙はなかった。

「別紙は」と槙野が訊いた。
「見たことがないです。あるはずなんですが、管理部の棚にはなかった」
「誰が持ってるんですか」
「社長か、顧問弁護士か。俺の手が届くところにはない」

槙野は紙を四つ折りに戻した。

「三島さん。これは使わせてもらっていいですか」
「渡した以上は。ただ、俺の名前は出さないでください」
「出しません」
「もう一つ」
「なんですか」
「俺はこれ以上は出せない。これが最後です」

三島は立ち上がった。
ビールはまだ半分残っていた。

「三島さん」
「なんですか」
「なんでこれを俺に」

三島は少し考えた。

「四年前の事故のとき、俺はこの手順書に従って動いたんです。総務に電話して、弁護士を呼んで、報告書を回して。全部手順通りにやった」

三島はコートを着た。

「手順通りにやって、人が一人潰れた。俺はそれを知ってて何もしなかった。十二年もいて」

三島は会計を済ませようとした。
槙野が「俺が払います」と言った。
三島は何も言わずに出ていった。

槙野はコピーを内ポケットにしまった。
ビールは頼まなかった。
水を飲んだ。

手順書。
第三版。
弁護士が報告書を書く。
責任範囲の特定については別紙参照。
別紙がない。
しかし別紙がなくても、この手順書だけで記事の骨格は見える。
事故が起きたとき、この会社は原因を究明するのではなく、責任を特定の個人に限定するための手順を持っている。
それが文書化されている。

須藤に電話した。
「手順書を入手した。事故対応マニュアルのコピー」
「本物か」
「本物だと思います。改訂番号が振ってある。第三版。十五年前の日付」
「中身は」
「弁護士が最初に現場に入って、報告書の草案を書く仕組みになってる。責任の範囲を限定するための別紙があるらしいが、そっちは手に入ってない」
「別紙なしでいけるか」
「手順書だけでも十分です。この文書の存在自体がニュースになる」

須藤が黙った。
今までとは違う沈黙だった。

「槙野」
「はい」
「書け」

槙野は駅の改札を通りながら、その一言を聞いた。

「年内に出す。クリスマス進行に間に合わせろ。長い原稿は要らない。事実だけでいい。六千字」
「六千字」
「書けるだろ」
「書けます」

書けます、と自分の口から出た言葉を、槙野は信じた。
信じたかった。

スナック兎に帰ったのは十時前だった。
カオルは客の相手をしていた。
岡ちゃんと、見たことのない男が一人。
男は岡ちゃんの同僚らしく、二人で並んでハイボールを飲んでいた。

槙野はカウンターの端に座った。
烏龍茶を自分で注いだ。
パソコンは開かなかった。
内ポケットにコピーが入っている。
その重さを感じていた。
紙二枚の重さではなかった。

二人が帰ったあと、カオルは皿を下げた。
グラスを洗った。
洗い終わって、カウンターを拭いた。

「今日は早いね」とカオルが言った。
「うん」
「何かあった?」
「いいことがあった」

カオルの手が一瞬だけ止まった。

「いいこと」
「うん。記事が書けそうだ」
「また書けそう?」
「今度は本当に書ける。頼まれた」

カオルは布巾を流しに置いた。

「古川建設の?」

槙野は頷いた。

カオルは何も言わなかった。
しばらく何も言わなかった。
それから棚のボトルを並べ替え始めた。
並べ替える必要のないボトルを。

「カオル」
「なに」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「なんか——」
「怒ってないって言ってるでしょ」

カオルはボトルのラベルを正面に向けた。
一本ずつ、丁寧に。

「あたしが何言っても関係ないんでしょ」
「そういうことじゃない」
「やめてって言ったよね。あたし」
「言った」
「言って、聞かなかったよね」
「聞かなかった」
「じゃあもう何も言わない」

カオルは棚を閉じた。

「先上がるね」
「カオル」
「おやすみ」

階段を上がる足音が消えた。
槙野はカウンターに一人で残った。
パソコンを開いた。
新しいファイルを作った。
タイトルを打った。

タイトルを打って、消した。
打ち直して、また消した。
三度目に打ったタイトルを、そのまま残した。

記事を書き始めた。


(つづく)


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