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スナック兎 * 好きにすれば

三島と三回目に飲んだ。
今度は槙野が店を選んだ。
品川から二駅離れた大井町の居酒屋。
古川建設の人間が来ない場所を選ぶ必要があった。

三島は生ビールを頼んだ。
槙野はウーロンハイを頼んで、ほとんど飲まなかった。

「この前の話の続きなんですけど」と三島が切り出した。
今回も三島の方からだった。
「例の人事の件、正式に決まりそうなんです。来月の取締役会で」
「早いですね」
「社長が急いでる。反対してる幹部が少ないうちに押し通すつもりなんでしょう」

槙野は頷いた。

「三島さん、一つ聞いてもいいですか」
「何ですか」
「古川建設って、現場で事故が起きたとき、どういう対応をするんですか」

三島のグラスが止まった。
止まったのは一瞬だった。
すぐにビールを飲んだ。

「事故って、労災ですか」
「労災でも、それ以上でも」
「それ以上って」
「死亡事故とか」

三島は枝豆を食べた。
殻を皿に置く手がゆっくりになった。

「なんで事故の話を?」
「建設業界のことを書いてるって言いましたよね。安全管理の実態に興味があるんです」

嘘ではない。
嘘ではないが、全部でもない。
三島はそれを感じ取ったようだった。

「事故が起きたら、まず現場を止めて、警察と労基署に届け出る。それはどこの会社も同じです」
「会社としての対応は」
「本社から人が来ます」
「どういう人が」
「総務と、あと——」

三島は言いかけて、ビールを飲んだ。

「あと?」
「弁護士です。顧問弁護士が来ます」
「翌日?」
「だいたい、その日のうちに」

槙野は何も言わなかった。
中川が言っていたことと同じだった。
弁護士が警察より先に来る。

「その対応って、マニュアルみたいなものがあるんですか」

三島の顔が変わった。
変わったのは表情ではなく、目の奥の温度だった。

「槙野さん。あなた、本当は何を書いてるんですか」
「建設業界の——」
「小説じゃないでしょう」

店の中が急に静かに感じた。
隣のテーブルではサラリーマンが笑っている。
その声が遠い。

「三島さん」
「いや、いいんです。いいんですけど」

三島は財布を出した。

「今日は自分で払います」

槙野は止めなかった。
止めたら関係が壊れる場面だった。

「また連絡してもいいですか」
「少し時間をください」

三島は席を立った。
前の二回とは違う背中だった。

槙野は残ったウーロンハイの氷を見ていた。
踏み込みすぎたか。
いや、踏み込まなければ進まない。
三島は「少し時間をください」と言った。
「もう会えない」とは言わなかった。
中川とは違う。
まだ糸は切れていない。

スナック兎に帰ったのは九時過ぎだった。
開店して間もない時間だ。
客はいなかった。

カオルはカウンターの中で柿ピーの袋を小皿に移していた。
槙野が座ると、カオルは烏龍茶を出した。
槙野が何も言わなくても烏龍茶を出すようになったのは、いつからだったか。

「早いね、今日は」
「うん」

槙野はパソコンを開かなかった。
カウンターに両手を置いて、何かを考えていた。

「しゅうちゃん」
「うん」
「最近さ、帰ってきたとき、嫌な顔してるよ」
「してないよ」
「してる。自分じゃ分かんないだけ」

槙野は烏龍茶を飲んだ。

「カオル」
「なに」
「俺、やっぱり良い記事が書けそうだ」

カオルは柿ピーの袋を畳んだ。

「その記事ってさ」
「うん」
「前に言ってた、建設会社の話?」
「うん」
「福原なんとかっていう」

槙野は少し驚いた。
名前を覚えていると思わなかった。

「よく覚えてるね」
「まあね」

カオルはカウンターを布巾で拭いた。

「しゅうちゃん、やめた方がいいんじゃないの」
「何を」
「その取材」
「なんで」
「なんでって言われても。なんとなく」

なんとなく、とカオルは言った。
前にも似たことを言っていた。
「深入りしない方がいいんじゃないの」と。
あのときの声は心配の声だった。
今夜の声は違った。
何が違うかを、槙野は掴めなかった。

「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないと思う」
「なんでそう思う」
「分かんない。でもそう思う」

カオルは蛇口を開けて、布巾を洗った。
水の音がカウンターに広がった。

「カオル」
「なに」
「心配してくれてるんだろ」
「別に。好きにすれば」

カオルは布巾を絞って、棒に掛けた。
背中を向けたまま言った。

「好きにするんでしょ、どうせ」

槙野は何も言わなかった。
好きにする。
たぶんそうだ。
カオルはそれを知っている。

十時を過ぎて、岡ちゃんが来た。
ハイボールを一杯飲んで、柿ピーチーズを食べて、帰った。
今夜も何も喋らなかった。

岡ちゃんが帰ったあと、カオルは皿を下げながら言った。
「岡ちゃんって不思議な人よね。何しに来てるんだろう」
「なんにもないときに来る人だろ。カオルが前にそう言ってた」
「そんなこと言ったっけ」
「言った」
「覚えてない」

カオルは皿を洗った。


(つづく)


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