スナック兎 * 小五のとき
槙野は三日間、カウンターで記事を書いた。
開店前から座り、開店後も客の隣で書き、閉店後も残って書いた。
カオルはその三日間、槙野に話しかけなかった。
必要なこと——「氷」「おしぼり」「閉めるよ」——だけを声にした。
四日目の夜、客が帰ったあとだった。
岡ちゃんがいつもより早く帰り、店にはカオルと槙野だけが残った。
槙野がパソコンの画面を見つめている。
原稿の途中だった。
古川建設の事故対応マニュアルの存在と、その構造が組織的な責任回避であることを書いている。
書けている。
初めて、書けている実感があった。
「しゅうちゃん」
「うん」
「その記事、いつ出るの」
「年内には出す」
「出したら、どうなるの」
「分からない。でも、読まれれば変わるかもしれない」
カオルはカウンターの中に立っていた。
グラスは全部洗い終わっている。
拭くものもない。
手が空いていた。
「変わるって、何が変わるの」
「会社がやってきたことが明るみに出る。事故を起こした人の、処理のされ方が」
「それで誰が得するの」
「得とかじゃない」
「得とかじゃないって、しゅうちゃん。あんたの記事で誰かの人生が変わるの。変わった人生の責任、あんたが取れるの」
槙野はパソコンから顔を上げた。
カオルの声が震えていた。
震えているのは怒りなのか、別の何かなのか、槙野には分からなかった。
「カオル。なんでそんなに——」
「あの会社の社長はね」
カオルが遮った。
「金で人を潰す男よ。あんたなんか簡単に潰されるわよ」
槙野は黙った。
カオルの言い方が具体的すぎた。
嫌な予感がする、というのとは違っていた。
「カオル。福原誠一郎を知ってるのか」
カオルは答えなかった。
カウンターの端を両手で掴んだ。
焦げ跡のある方の端を。
「知ってるのか」
「知ってるわよ」
カオルの声が落ちた。
「あたし、知ってんのよ。ぜんぶ」
店の蛍光灯がジーッと鳴っていた。
その音が急に大きくなった気がした。
「ぜんぶって、何を——」
「あの男の子どもを産んだのは、あたしよ」
槙野の手がキーボードの上で止まった。
「直人っていう名前をつけたの。あたしがつけた。それを取り上げられた。金を積まれて、会わせてもらえなくなった」
カオルの目が赤い。
「この店はね、その金で開けたのよ。手切れ金。子どもを渡した金。あんたが毎晩座ってるこのカウンターは、あたしの子どもの代わりなの」
槙野は立ち上がれなかった。
椅子に座ったまま、カオルを見ていた。
「前にあんたが見せてた写真の男、あの夜うちに来たの。風俗の女と一緒に。あたしの息子が、あたしの店に来たのよ。あたしが誰かも知らないで」
カオルの声が途切れた。
途切れて、また続いた。
「それとね」
「——」
「あたし、あんたと同い年よ」
槙野の目が動いた。
「小五のとき、同じクラスだったの。覚えてないでしょ。苗字が変わったから」
槙野は覚えていなかった。
「放課後にね、上級生に絡まれたことがあったの。ランドセル引っ張られて、転んだ。そしたらあんたが走ってきて、怒鳴って、そのまま走って逃げた。上級生はあんたを追いかけて、あたしのことは忘れた」
槙野の記憶が動いた。
遠い場所で。
「あんた足が速かったのよ。クラスで一番。追いつかれなかったでしょ」
覚えている。
覚えているが、助けた女の子の顔は出てこなかった。
「次の日、何にも言ってくれなかった。でも、一回だけ一緒に帰ったことがあるの。あんた、ずっと半歩先を歩いてた」
槙野の中に、秋の帰り道の映像がかすかに戻った。
横に女の子がいた。
顔は覚えていない。
何かのなりゆきだった気がする。
並んで歩くのが恥ずかしくて、前を向いたまま何も喋れなかった。
「あたしはね、あの帰り道、ずっとどきどきしてたの。クラスで一番足の速い男の子が、隣を歩いてくれてるって。ただそれだけで」
カオルの声が小さくなった。
「好きだったのよ、あんたのこと。小学校のときから」
「だからしゅうちゃんって呼んでたの。昔の呼び方。あんたは気づかなかったけど」
蛍光灯の音だけが残った。
槙野が口を開いた。
「カオル、俺は——」
「これ以上追うなら出てって」
カオルの声が戻っていた。
低くて、硬い声だった。
「出てけって——」
「出てって。今すぐ」
槙野はパソコンを閉じた。
閉じて、鞄に入れた。
立ち上がった。
カオルはカウンターの中に立ったままだった。
焦げ跡のある端を両手で掴んでいた。
槙野はドアに手をかけた。
鈴が鳴った。
百均の鈴が、いつもと同じ音を立てた。
「カオル」
「出てって」
槙野は出た。
ドアが閉まった。
鈴が鳴り終わった。
店の中で、カオルは立っていた。
焦げ跡を見ていた。
長谷川が煙草を押しつけた跡を。
最初の客を断ったときの跡を。
二十七年間、直さなかった跡を。
カオルは蛍光灯を消した。
暗い店の中で、椅子に座り、無言で宙を眺めていた。
(つづく)
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