スナック兎 * 釣り
須藤に言われたのは「古川建設の本社は品川にある」ということだけだった。
リークは匿名だった。
須藤のもとに封書で届いた。
差出人の名前はなく、消印は都内。
中身は普通紙に印刷された文字一枚で、
「社長が養子を役員にしようとしている。反対する幹部がいる。過去の事故処理に関する社内文書が存在する」
と書かれていた。
手がかりはそれだけだった。
「封筒は残ってますか」
「捨てた」
「須藤さん」
「悪かったよ。まさかお前に振ると思ってなかったんだ」
槙野は品川に行った。
古川建設の本社ビルは品川駅から歩いて十五分ほどの、古い雑居ビルの三階にあった。
中小ゼネコンの本社としては普通の規模だった。
看板だけ確認して、通り過ぎた。
まず周辺を歩いた。
ビルの裏手に喫煙所がある。
昼前だった。
人はいない。
ビルから半径三ブロックの飯屋を数えた。
定食屋が二軒、蕎麦屋が一軒、牛丼チェーンが一軒。
中小の建設会社の昼休みは十二時に始まって十二時四十五分に終わる。
作業着の人間が流れる先は決まっている。
定食屋の一軒に入った。
十二時五分に席についた。
日替わりを頼んで、周囲を見た。
作業着の男が七、八人いた。
古川建設のロゴが入った作業着は見当たらなかった。
翌日、もう一軒の方に入った。
こちらは少し狭い。
カウンター八席と四人がけのテーブルが二つ。
十二時十分に、古川建設のロゴが入った作業着の男が三人で入ってきた。
テーブルに座り、迷わず日替わりを頼んだ。
毎日来ているのだろう。
槙野はカウンターで味噌汁をすすりながら、背中越しに聞いていた。
会話は現場の段取りの話だけだった。
三日通った。
三人のうち、五十代の男が一番よく喋る。
現場の不満を口にする。
「また安全講習だよ。毎月やって意味あんのかね」
残りの二人は黙って飯を食っている。
四十代の痩せた方の男は、ときどき頷くだけだった。
四日目は行かなかった。
毎日いると覚えられる。
五日目に行くと、三人ではなく二人だった。
五十代の男がいない。
四十代の痩せた男ともう一人がテーブルに座っている。
五十代がいないと、二人はほとんど喋らなかった。
六日目。
四十代の男が一人で来た。
テーブルではなくカウンターに座った。
一人の時はカウンターに来る。
槙野はそれを待っていた。
槙野は十一時五十分に店に入った。
古川建設の昼休みより十分早い。
カウンターの端に座り、日替わりを頼んだ。
座ってすぐ、醤油差しと七味の入った籠を、自分から三席ぶん離れた位置にさりげなくずらした。
十二時を過ぎて、四十代の男が入ってきた。
槙野から二席空けてカウンターに座った。
日替わりを頼んだ。
調味料の籠は男のすぐ隣にある。
槙野の定食が先に来た。
槙野は味噌汁に手をつけて、生姜焼きに箸を伸ばし、それから思い出したように顔を上げた。
「すみません、醤油もらえますか」
男は籠から醤油差しを取って寄越した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
それだけだった。
その日はそれで終わった。
七日目。
同じことをした。
十一時五十分に入り、調味料を遠くに置き、先に定食を食べ始める。
男が座る。
頃合いを見て「すみません、七味」と声をかけた。
男は七味を渡しながら言った。
「よく来られますね、ここ」
「この辺に打ち合わせで来ることがあって。昼だけ」
「へえ」
男は自分の定食に手をつけた。
それ以上は喋らなかった。
八日目は来なかった。
九日目。
槙野が座っていると、男が入ってきて、一席空けて座った。
前回より一席近い。
調味料の籠は槙野の手元にあった。
今日はずらしていない。
男が定食を待つ間、テレビを見ていた。
昼のニュースが流れている。
槙野の定食が来た。
男の方を見ずに、箸を割った。
「生姜焼き?」と男が訊いた。
「ここの生姜焼き、うまいですよね」
「安いしね」
男の定食が来た。
同じ生姜焼きだった。
二人とも黙って食べた。
食べ終わる頃、男が言った。
「お仕事、この辺なんですか」
「いや、打ち合わせで来ることがあって。物書きみたいなことをしてるんで」
「物書き。へえ、かっこいいですね」
「全然かっこよくないですよ」
男は笑った。
名前は聞かなかった。
聞くのはまだ早い。
品川に通い始めてからスナック兎に帰る時間は変わらなかった。
昼に出て、夕方には戻る。
しかし槙野は帰っても取材の話をしなくなっていた。
「良い記事が書けそうだ」も言わなくなった。
カオルは「どうだった」と訊かなくなっていた。
その夜、客は岡ちゃんだけだった。
槙野がカウンターの端に座ると、岡ちゃんがどうも、とだけ言った。
岡ちゃんが帰ったあと、カオルはグラスを洗いながら言った。
「最近しゅうちゃん、帰ってきても何も言わないね」
「言うことがないだけだよ」
「前は関係なく喋ってたじゃない。企画書がどうの、ネタがどうの」
「そうだったかな」
「そうだったわよ」
槙野は黙った。
取材が具体的になるほど、話せなくなる。
話せないのは守秘のためだけではなかった。
また「良い記事が書けそうだ」と言って、書けないまま戻ってくることになるかもしれない。
それをカオルの前でやるのが、嫌だった。
カオルは洗い終わったグラスを逆さにして布巾の上に並べた。
五つ。
客の数より多い。
「別にいいよ、話さなくても。ただ黙ってると、悪いこと考えてるみたいに見えるから」
「悪いことは考えてない」
「ならいいけど」
カオルは蛇口を閉めた。
水滴がシンクに一つ落ちる音がした。
(つづく)
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