「因数分解de“学びに向かう力”学」——次期学習指導要領で評価が変わりそうな理由【コラム】思好の科楽(その289)
「やる気では説明できない“学びの正体”を、
構造と循環で解き明かす」
「やる気があるかどうか」では説明できない学びの違いに、違和感を持ったことはありませんか?
本コラムでは、「学びに向かう力」という曖昧な概念を、初発・自己調整・関係形成・人間性の4つに因数分解し、さらにそれらが循環する構造として捉え直します。
なぜ学びは止まるのか、なぜ評価が難しいのか、そしてどうすれば学びは動き出すのか。
教育現場だけでなく、大学・社会人・日常生活にも通じる「学びの本質」を、等身大の視点で読み解いていきます。
🧠 このコラムで学べる、3つのこと
1️⃣ 学びを「能力」ではなく「構造」として捉える視点
→ やる気や才能ではなく、どの要素が機能しているかで学びを分析できるようになります。2️⃣ 学びが止まる理由を因数分解して見抜く方法
→ 「できない理由」を感覚ではなく、構造的に特定できるようになります。3️⃣ 学びを動かすための実践的な設計思考
→ 学ばせるのではなく、学びが自然に回る仕組みをつくるヒントが得られます。
🟦 序章|「やる気」では説明できないもの


◉ 見える学力と見えない学力
テストの点数は、ある意味とても分かりやすい。
100点か、80点か、あるいは赤点か。数字で示されると、誰が見ても「できている/できていない」がすぐに判断できる。
一方で、こんな経験はないだろうか。
同じ授業を受けているのに、ある人はどんどん深く理解していく。
別の人は、同じ内容を聞いてもなかなか定着しない。
あるいは、テストの点数はそこそこでも、自分から調べたり、試したりする人がいる一方で、点数は良くても、言われたことしかしない人もいる。
この違いは、いったい何なのだろうか。
おそらく多くの人は、こう答える。
「やる気の差ではないか」
たしかに、それも一理ある。
しかし、よく考えてみると、少し違和感がある。
やる気はあるのに続かない。
興味はあるのに行動に移らない。
逆に、そこまで好きではないのに、淡々と続けて結果を出す人もいる。
つまり、「やる気」という言葉だけでは、この差を説明しきれないのである。
◉ なぜこの言葉は曖昧に感じるのか
いま、文部科学省では、2030年を目途に改訂予定の新学習指導要領案が、特別部会で検討されている。
その中で、今回、「学びに向かう力」という視点が、クローズアップされているようだ。
令和8年3月30日教育課程部会 総則・評価特別部会
資料1ー1検討資料:学習評価の在り方について
しかし、この言葉は、どこかつかみどころがない。
意欲、態度、主体性、粘り強さ、協働性、思いやり…。
思いつく限りの“よさそうなもの”が、すべて入っているような感覚になる。
だからこそ、なんとなく分かった気にはなる。
けれども、「それって具体的に何?」と聞かれると、急に言葉に詰まる。
たとえば、
「主体的に学ぶ力が大事だよね」と言われても
「じゃあ主体的って、どういう状態?」と聞かれると曖昧になる
こうした経験は、誰しも一度はあるのではないだろうか。
これは決して個人の理解不足ではない。
むしろ、言葉そのものが“広すぎる”ことが原因なのかもしれない。
つまり、「学びに向かう力」とは、ひとつの能力ではなく、複数の要素が混ざり合った“塊”のようなものなのだ。
◉ 「分かった気」から抜け出すために
ここで重要なのは、「分かった気になること」と「理解すること」は違う、という点である。
たとえば料理でいうなら、「おいしい」という一言で片付けてしまうのは簡単だ。
しかし、その中身を分解していくと、味付け、火加減、食材の組み合わせ、香り、食感など、さまざまな要素が絡み合っていることが見えてくる。
学びも同じである。
「やる気がある」「主体的だ」という言葉で止まってしまうと、それ以上深く考えられなくなる。
しかし、それを分解していくと、まったく違う景色が見えてくるはずだ。
だからこそ必要なのが、“因数分解”という視点だ。
◉ 本コラムの問い
では、「学びに向かう力」とは、いったい何でできているのか。
それは単なる意欲なのか。性格なのか。環境なのか。
それとも、もっと別の構造なのか。
本コラムでは、この曖昧な言葉を一度ばらばらに分解し、その上で、もう一度組み立て直すことを試みたい。
「学びに向かう力とは、結局何でできているのか?」
この問いに対して、感覚ではなく、構造として答えられるようになること。
それが、この先の議論の出発点である。
🟩 第1章|まずは全体像から——“学びに向かう力”の正体


◉ 一枚で見えてくる構造
ここで改めて、この図を直感的に眺めてほしい。
細かい言葉を読む前に、全体の配置や流れを感じ取るだけでもよい。
中央にあるのは「学びに向かう力」。
そして、その周囲を4つの要素がぐるりと取り囲み、矢印でつながれている。
この構造が示していることは、実はとてもシンプルである。
学びは、単一の能力ではなく、複数の力の組み合わせでできている
たとえば、こんな場面を想像してみてほしい。
新しいことに興味を持って調べ始める人がいる(初発)。
しかし途中で飽きてしまえば、そこで止まる。
一方で、計画を立てたり振り返ったりしながら続ける人もいる(調整)。
さらに、誰かと話したり意見を交換したりすることで理解が深まる(関係)。
そして最後に、「これって何のためにやるのか」と意味づけがされる(人間性)。
こうして見ていくと、どれか一つだけではなく、いくつもの力が連動して初めて“学び”が動いていることが分かる。
そしてもう一つ重要なのは、この図が「一直線」ではなく「円」になっている点である。
学びは一度きりの流れではなく、何度も回り続ける循環である
理解したことが次の問いを生み、その問いが新たな学びを始める。
このループこそが、学びの本質的な姿である。
◉ 重要なのは「掛け算」であること
この図をもう一歩だけ深く読むと、さらに重要な特徴が見えてくる。
それが、「掛け算」という構造だ。
学びに向かう力 = 4つの力の掛け算
これは単なる比喩ではなく、本質的な性質を表している。
たとえば、どれだけ好奇心が強くても(初発力が高くても)、続ける力がなければ学びは途中で止まる。
逆に、どれだけ真面目に続けられても、最初の問いがなければ学びは始まらない。
また、一人で黙々と取り組むだけでは、視点が広がらず理解が浅くなることもある。
つまり、どれか一つでも欠けると、全体としての学びは成立しにくいのだ。
これは足し算とは決定的に違う。
足し算であれば、「得意な部分で補う」という考え方が成り立つ。
しかし掛け算の場合、どこかがゼロに近づくと、全体も一気に小さくなる。
この構造を理解すると、見え方が大きく変わる。
「やる気があるかどうか」ではなく、どの要素が弱くて、どこで止まっているのか、という視点で学びを見ることができるようになる。
◉ この図が示している本質
ここまでを踏まえると、この図が伝えようとしている本質は次の一言に集約される。
つまり、学びとは「状態」ではなく「構造」である、ということだ。
私たちはつい、「やる気がある」「主体的だ」といった“状態”で学びを捉えがちである。
しかし、それではなぜうまくいくのか、なぜ止まるのかを説明することができない。
一方で、構造として捉えると、見えるものが変わる。
たとえば、
なぜこの生徒は途中で止まるのか
→ 自己調整の部分でつまずいているのではないかなぜこの活動は盛り上がらないのか
→ 初発の問いが弱いのではないかなぜ理解が深まらないのか
→ 他者との関係が不足しているのではないか
このように、学びを「分解して考える」ことが可能になる。
そしてさらに重要なのは、この構造が固定されたものではなく、常に動き続けているという点である。
学びは“できる/できない”ではなく、“どこで動いているか”で捉えるべきものなのである。
🟧 第2章|因数分解① 初発力と自己調整力——学びはどう始まり、続くのか

◉ 初発力とは何か
学びが始まる瞬間は、たいていとても小さい。
たとえば、ふとした疑問から調べ始めた経験はないだろうか。
「なんで空は青いんだろう」でもいいし、「この問題、別の解き方はないのか」と思った瞬間でもいい。
あるいは、授業中に先生の一言に引っかかって、あとで自分で調べてみたことがある人もいるだろう。
こうしたきっかけに共通しているのは、特別な才能ではない。
むしろ、ちょっとした違和感や興味が“スイッチ”になっているという点である。
これが「初発力」である。
初発力とは、学びを動かし始める“点火装置”である
その中身を分解すると、いくつかの要素に分かれる。
好奇心(面白そうだと思う)
違和感(なんか変だと感じる)
問い(なぜ?と立ち止まる)
やってみる(小さく行動する)
ここで重要なのは、「大きなやる気」は必ずしも必要ないという点である。
むしろ、学びの始まりは“軽い”ほうが動きやすい。
完璧に理解しようとするよりも、とりあえず試してみる。その一歩が、すべての起点になる。
◉ 学びの格差はここから始まる
よく「学力の差は能力の差だ」と言われることがある。
しかし、日常の学びを観察していると、少し違った見え方が浮かび上がる。
同じ授業を受けても、
気になったことをすぐに調べる人
「まあいいか」と流してしまう人
この違いは、知識量というよりも、「反応の仕方」に近い。
つまり、差が生まれているのは結果ではなく、その前段階である。
学びの格差は「能力差」ではなく「着火差」から始まる
もちろん、知識や技能も重要である。
しかし、それらは学びが始まってから積み上がるものだ。
そもそも火がつかなければ、どれだけ燃料があっても燃えない。
たとえば、
問題を見て「面倒だな」で終わる人
「どうやって解くんだろう」と一瞬でも考える人
このほんの小さな差が、長い時間の中で大きな差になっていく。
ここで見えてくるのは、学びの本質が「量」ではなく「起動」にあるということだ。
◉ 自己調整力とは何か
しかし、学びは「始まっただけ」では意味がない。
むしろ難しいのは、そのあとである。
興味を持って調べ始めたものの、途中で止まってしまった経験は誰にでもあるだろう。
最初はやる気があったのに、気づいたら別のことをしている。
ここで必要になるのが「自己調整力」だ。
自己調整力とは、学びを“回し続ける力”である
その中身を分解すると、次のような要素が見えてくる。
見通し(どこまでやるか考える)
振り返り(うまくいっているか確認する)
修正(やり方を変える)
計画(次に何をするか決める)
これは、一直線に進む力ではない。
むしろ、何度も立ち止まり、方向を修正しながら進む“ループ”のようなものだ。
たとえば、勉強が続く人は、単に意志が強いわけではない。
今日はここまでやろうと決める
うまくいかなかったらやり方を変える
少しでも進んだら次につなげる
こうした小さな調整を繰り返している。
つまり、継続とは「根性」ではなく「調整の積み重ね」なのだ。
◉ 「頑張る」と「回す」は違う
ここで、一つ誤解しやすいポイントがある。
それは、「続ける=頑張ること」だと捉えてしまうことだ。
もちろん、努力や意志は大切である。
しかし、それだけに頼ると、どうしても不安定になる。
気分が乗らない日には止まり、忙しくなると途切れてしまうだろう。
一方で、自己調整がうまく働いている場合は少し違う。
たとえば、
やる気がなくても、とりあえず5分だけやる
うまくいかないときは、方法を変えてみる
できたところまでで区切る
このように、状態に合わせて仕組みを調整することで、学びは止まりにくくなる。
ここで重要なのは、学びを「気分」ではなく「構造」で支えるという視点だ。
継続は意志ではなく、構造によって生まれる
この理解に立つと、「頑張れない自分」を責める必要はなくなる。
代わりに、「どこを調整すれば回り始めるか」を考えることができるようになるはずだ。
🟪 第3章|因数分解② 関係形成力と人間性——学びはどこへ向かうのか

◉ 関係形成力の本質
ここまでで、学びが「始まり」「続く」構造を見てきた。
しかし、それだけではまだ不十分である。
なぜなら、学びは内側だけで完結するものではないからだ。
たとえば、一人で問題を解いていて、「分かった」と思っていた内容が、友人に説明しようとした途端にうまく言葉にできなくなることがある。
逆に、誰かの説明を聞いて、「ああ、そういうことか」と一気に理解が深まることもある。
この違いは何か。
それは、他者との関わりが思考を“更新”しているという点だ。
これが「関係形成力」である。
関係形成力とは、学びを外へ開き、広げていく力である
その中身を分解すると、次のような要素が見えてくる。
対話(考えを言葉にする)
協働(他者と一緒に考える)
多様性(異なる視点に触れる)
他者視点(自分以外の立場で考える)
ここで重要なのは、「人と関わること」そのものではない。
単に一緒にいるだけでは、学びは広がらない。
むしろ、違いに触れること、ずれに気づくことこそが、学びを動かすのである。
◉ 学びは一人で完結しない
私たちはつい、「理解する」という行為を個人の中で完結するものとして捉えがちである。
しかし、実際にはそうではない。
たとえば、
自分では納得していた考えが、別の人の意見で揺らぐ
説明しようとして初めて、自分の理解の曖昧さに気づく
全く違う発想に触れて、新しい視点が生まれる
こうした経験は、誰しも一度はあるだろう。
ここで起きているのは、単なる情報交換ではない。
他者との関わりによって、自分の思考そのものが組み替えられている
つまり、学びは「深める」だけでなく、「広がる」ことで質が変わる。
一人での学びは、どうしても同じ枠の中で回りやすい。
しかし、他者が入ることで、その枠自体が揺さぶられる。
このとき初めて、理解は「更新」される。
だからこそ、関係形成力は単なるコミュニケーション能力ではない。
思考の枠を外側から広げるための構造的な力なのだ。
◉ 人間性とは何か
ここで、もう一つ重要な要素がある。
それが「人間性」である。
この言葉は非常に広く、場合によっては曖昧に聞こえるかもしれない。
しかし、構造として捉えると、その役割は比較的はっきりしている。
人間性とは、学びに“方向”を与える力である
その中身を分解すると、次のような要素に分かれる。
意味(なぜそれを学ぶのか)
価値(それが何につながるのか)
社会性(他者や社会との関係)
倫理(どう使うべきか)
たとえば、同じ知識を持っていても、それをどう使うかは人によって異なる。
人を助けるために使う人
競争に勝つために使う人
誰にも共有しない人
ここに表れているのが「方向」の違いである。
知識や技能そのものは中立である。
しかし、それをどう位置づけ、どこに向かって使うのかによって、その意味は大きく変わる。
◉ 学びの質は「方向」で決まる
ここまでを踏まえると、学びのもう一つの側面が見えてくる。
それは、量や深さだけではなく、「向き」によって質が変わるということである。
同じ知識でも、どこに向かって使うかで価値はまったく変わる
たとえば、
テストで点を取るためだけに覚えた知識
誰かの役に立てようとして学んだ知識
この二つは、見た目には同じ知識であっても、その意味は大きく異なる。
また、関係形成力と人間性は、独立しているわけではない。
他者と関わる中で、自分の価値観が揺さぶられたり、更新されたりする。
逆に、自分の価値観があるからこそ、どのように他者と関わるかが決まる。
つまり、「広がり」と「方向」は相互に影響し合う構造になっている
ここまで見てくると、学びは単なるスキルの獲得ではなく、より大きな構造として理解できるようになる。
それは、
始まり(初発)
続き(調整)
広がり(関係)
方向(人間性)
が循環しながら動いているプロセスである。
そして、この全体像を踏まえたとき、次に浮かび上がる問いがある。
このような複雑な構造を、私たちはどのように評価すればよいのだろうか
🟥 第4章|なぜ評価が難しいのか——そして何が変わろうとしているのか


◉ 図を見て初めて分かること
ここで、あらためてこの図を見てみよう。
第1章のシンプルな構造に比べて、要素や関係が増え、少し複雑に見えるかもしれない。
しかし、この複雑さこそが、学びの本来の姿である。
学びは、そもそも“見えにくい構造”をしている
たとえば、テストの点数は一目で分かる。
しかし、その点数に至るまでの過程は、ほとんど見えない。
どこで疑問を持ったのか(初発)
どうやって続けたのか(調整)
誰と関わったのか(関係)
どんな意味づけをしているのか(人間性)
これらはすべて、外からは直接観察しにくい。
さらに重要なのは、それぞれの要素の“性質”が異なるという点である。
同じ「学びの力」でも、測り方がまったく違う領域が混在している
この事実こそが、評価の難しさの出発点である。
◉ 評価が難しい理由の分解
では、その難しさをもう少し分解してみよう。
まず「初発力」である。
これは、そもそも外に現れにくい。
頭の中で生まれる違和感や問いは、行動に出るまで見えない。
初発力は「見えにくい」という性質を持つ
次に「自己調整力」。
これは行動としては見えるが、その評価は難しい。
なぜなら、結果ではなく過程に依存しているからである。
同じ成果でも、
試行錯誤してたどり着いたのか
偶然うまくいったのか
では意味が全く異なる。
自己調整力は「過程依存」である
さらに「関係形成力」。
これは他者との関係の中で発揮されるため、個人だけを見ても評価しにくい。
誰と関わったのか
どのような対話があったのか
によって、大きく変わる。
関係形成力は「他者依存」である
そして「人間性」。
これは最も評価が難しい領域である。
なぜなら、価値や意味は文脈によって変わるからである。
ある場面では良いとされる行動が、別の場面ではそうでないこともある。
人間性は「文脈依存」である
このように整理すると見えてくるのは、評価の難しさが偶然ではないということだ。
評価が難しいのは、対象が“異なる性質の集合体”だからである
◉ 従来評価の限界
では、これまでの評価はどうだったのか。
学校における評価は、長い間、ある前提に基づいて設計されてきた。
それは、「測りやすいものを測る」という発想である。
たとえば、
教科ごとに分ける
テストで点数化する
結果で判断する
これらはすべて、「見えるもの」を中心に設計されている。
もちろん、この方法には大きな利点がある。
公平性や分かりやすさを担保しやすいからだ。
しかし一方で、限界もはっきりしている。
見えにくい力は、どうしても取りこぼされる
その結果として、
「主体的に学ぶ態度」という言葉だけが残る
しかし、その中身は曖昧なままになる
という状況が生まれる。
つまり、問題は「評価しようとしていない」ことではない。
構造に合っていない方法で評価しようとしていることにあるのだ。
◉ これからの評価の方向
では、どうすればよいのか。
ここで重要なのは、「評価をやめる」という発想ではない。
むしろ必要なのは、構造に合った評価へと変えることである。
その方向性は、大きく3つに整理できる。
一つ目は、「個人内評価」だ。
他者と比較するのではなく、その人の中でどのように変化したかを見る。
昨日よりも今日、どこが変わったのかに注目する。
成長は“差”ではなく“変化”で捉える
二つ目は、「プロセス評価」である。
結果だけでなく、その過程を評価の対象にする。
どのように考え、どのように試し、どのように修正したのかを見る。
見えにくい力は、過程の中に現れる
三つ目は、「教科横断」である。
学びを教科ごとに分断するのではなく、横断的に捉える。
一つの活動の中で、複数の力がどのように働いているかを見る。
学びは本来、分けられない構造をしている
こうした方向に進むことで、初めて学びの全体像に近づくことができる。
最後に、もう一度確認しておこう。
評価はなくなるのではない。進化するのである
そしてその進化は、「何を測るか」ではなく、「どの構造を、どの視点で見るか」への転換なのだ。
🟫 まとめ章|「学びに向かう力」は“循環する構造体”である

◉ 因数分解の再確認
ここまで、「学びに向かう力」という曖昧な言葉を、いくつかの要素に分解して見てきた。
その結果、見えてきた構造は次の通りである。
学びに向かう力 = 初発力 × 自己調整力 × 関係形成力 × 人間性
この4つの力が組み合わさることで、学びは動き出し、続き、広がり、そして意味を持つ。
重要なのは、これらが独立した要素ではないという点だ。
たとえば、
問いが生まれることで行動が始まり(初発)
試しながら調整し(調整)
他者と関わることで視点が広がり(関係)
その中で意味づけが更新される(人間性)
この一連の流れは、分断されたものではなく、一つの連続したプロセスである。
学びとは、複数の力が絡み合って動く“構造体”なのである
◉ 学びは一方向ではない
そしてもう一つ、この構造の重要な特徴がある。
それは、「循環している」という点だ。
学びは、
始まって
進んで
終わる
という一方向の流れではない。
むしろ、
理解したことが新たな疑問を生み
その疑問が次の学びを始める
というループの中で動き続けている。
学びは“終わるもの”ではなく、“回り続けるもの”なのだ
たとえば、一つのテーマを調べて「分かった」と思った瞬間に、別の疑問が生まれることがある。
あるいは、誰かと話したことで、これまで気づかなかった視点に出会うこともある。
このとき、学びは一度完結するのではなく、次のサイクルへと移行している。
つまり、学びの本質は「到達」ではなく、「循環」にある。
◉ 教育の転換点
このように学びを構造として捉えたとき、教育の見え方も大きく変わる。
これまでの教育は、どちらかといえば「知識」を中心に設計されてきたのではないだろうか。
何を知っているか
どれだけ正確に答えられるか
これらは確かに重要であり、今後も必要な要素である。
知識を軽んじて良いわけでは決してない。
しかし、それだけでは学びの全体像を捉えることはできない状況になってきた。
教育は「知識中心」から「構造中心」へと移行しつつある
つまり、
何を知っているか
ではなく
どのように学びが動いているか
に注目する必要がある。
そして、それに伴って評価も変わらざるを得ない。
結果だけを見る評価から
過程や変化を見る評価へ
評価は「測るもの」から「捉えるもの」へと変わる
これは単なる方法の変更ではなく、教育観そのものの転換である。
◉ 読者への回収
最後に、このコラムの内容を、日常の学びに引き寄せてみたい。
もし、誰かに学びを促そうとするとき、私たちはついこう考えてしまう。
「どうやって教えるか」
「どうやってやる気を出させるか」
しかし、ここまでの構造を踏まえると、少し違った見え方ができるようになる。
学ばせるのではなく、学びが動く構造をつくる
たとえば、
問いが生まれるような余白をつくる(初発)
小さく回せる仕組みを用意する(調整)
他者と関わる場を設計する(関係)
意味づけを考える機会を持つ(人間性)
こうした要素が組み合わさることで、学びは自然と動き始める。
そしてこれは、教育の場に限った話ではない。
仕事でも、趣味でも、人間関係でも、すべての「学び」はこの構造の中で動いている。
だからこそ、「なぜ動かないのか」ではなく、「どこが回っていないのか」を考える、この視点を持つことが、学びとの関わり方を大きく変えていく。
学びは、与えられるものではない。
かといって、完全に個人の努力に委ねられるものでもない。
学びとは、動き続ける構造であり、その構造に関わる営みそのものである
この理解が、これからの学びを捉える一つの土台になるはずだ。
🟨 あとがきのようなもの章|学びは、静かに回り続けている

◉ 学びの始まりは小さい
4月1日。新しい年度が始まります。
幼稚園、小学校、中学校、高校――それぞれの場所で、新しい一歩が始まります。
私自身、総合学園の事務職員としてこの時期を迎えるたびに、少しだけ空気が変わるのを感じます。
新しい教室、新しい先生、新しい仲間。
どこか落ち着かないけれど、少しだけ前を向こうとする、あの独特の空気です。
その中で、ふと目に入るのは、とてもささやかな瞬間です。
教科書を何気なくめくる手。
黒板の文字に、少しだけ視線を止める時間。
誰かの言葉に、「ん?」と引っかかる表情。
学びは、こうした小さな違和感から静かに始まります。
それは、大きな決意ではありません。
むしろ、「なんだろう」という、ほんの一瞬の引っかかりです。
そしてこれは、決して子どもだけの話ではありません。
◉ だから見えにくい
たとえば、大学での学び。
講義を聞いていて、ある一言だけが妙に気になることがあります。
あるいは、社会人になってから。
仕事の中で、「このやり方、本当に最適なのだろうか」とふと思う瞬間があります。
さらに、大人になってからでも。
ニュースを見ていて違和感を覚えたり、誰かの言葉に引っかかって、あとから調べてみたり。
学びの始まりは、年齢に関係なく同じように訪れています。
ただし、それはやはり見えにくい。
テストの点数のように、すぐに結果として表れるわけではありません。
評価制度の中にも、なかなか乗りにくい。
だからこそ、私たちは「学んでいない」と思い込みやすいのかもしれません。
けれども実際には、見えないところで、小さな動きが確かに生まれています。
◉ しかし、それがすべてを動かす
本コラムで見てきた通り、学びは
点火(初発)
継続(自己調整)
拡張(関係形成)
方向(人間性)
という循環の中で動いています。
そして、そのすべての起点は、とても小さなところにあります。
ほんの一瞬の「気になる」が、学び全体を動かし始める
学生であっても、社会人であっても、この構造は変わりません。
仕事でうまくいかなかった理由を考える
誰かの意見を聞いて視点が変わる
自分なりの意味を見つけて行動が変わる
こうしたプロセスは、すべて同じ循環の中にあります。
そしてその動きは、とても静かです。
派手な変化ではなく、少しずつ、気づかないうちに、内側で進んでいく。
学びとは、人生の中で静かに積み重なっていく変化そのものです。
◉ 最後に
こうして振り返ってみると、「学びに向かう力」という言葉の意味も、少し変わって見えてきます。
それは、特別な能力ではありません。
誰かに与えられるものでもありません。
むしろ、
ちょっと気になる
少し試してみる
うまくいかないから考える
誰かと話してみる
そうした日常の中の、小さな循環です。
学びに向かう力とは、年齢を問わず、人生を通して回り続ける構造なのだと思います。
だからこそ、大切なのは「もっと頑張ること」だけではなく、その小さな動きを止めないこと、そして気づけることです。
新しい年度の始まりに、もし少しだけ立ち止まる余裕があれば。
目の前の大きな目標ではなく、自分の中に生まれている小さな違和感や興味に、そっと目を向けてみる。
その中に、すでに動き始めている学びの循環が見えてくるはずです。
そしてそれは、学校の中だけでなく、これからの人生すべての中で、静かに回り続けていくものなのだと思います。
🟪 補章|その“理想”、本当に扱えるのか——学びの構造と実装のあいだ

◉ 理解できる。しかし、扱えるのか?
ここまで読み進めてくださった方の中には、こう感じた方もおられるのではないでしょうか。
「言っていることは分かる。しかも大事だとも思う。でも、実際にそれをどう扱うのかが見えない」と。
たしかに、初発力、自己調整力、関係形成力、人間性。
この4つは、言葉としてはかなり納得しやすいです。
「たしかにそういう要素はあるよね」と、多くの人がうなずけると思います。
しかし、ここで一つ大事な線引きがあります。
それは、“分かる”ことと“扱える”ことは別だということです。
たとえば、会議で「主体性が大事です」と言うのは比較的簡単です。
けれども、その主体性をどう見取り、どう記録し、どう育て、どう評価に反映するのか、となると一気に難しくなります。
概念としての納得と、実務としての運用のあいだには、かなり深い溝があります。
この補章では、まさにその溝を見ていきます。
理論が美しいことと、現場で回ることは、同じではありません。
むしろ、本当に重要な理論ほど、実装のところで急に重くなるのです。
◉ そもそも観測できるのか?
最初に出てくる問いは、とても素朴ですが本質的です。
そもそも、それは観測できるのか?という問いです。
たとえば初発力。
これは「何かが気になる」「問いが立つ」「違和感を持つ」といった、かなり内面的な動きから始まります。
しかし、その瞬間は、必ずしも外からは見えません。
本人の中では火がついていても、表情にも行動にもまだ出ていないことがあります。
自己調整力も同じです。
見通しを立て、振り返り、やり方を変え、また進む。
この流れはたしかに存在しますが、そのすべてがノートや発言に表れるわけではありません。
結果だけ見れば「できた/できなかった」でも、その裏にある調整の質はまるで違うことがあります。
関係形成力はさらにややこしい。
これは個人の中に閉じた力ではなく、相手との相互作用の中で表れます。
誰と組むか、どんな空気の教室か、その日の関係性はどうか。
そうした条件で、出たり引っ込んだりします。
人間性に至っては、もっと文脈依存です。
ある場面では思いやりに見える行動が、別の場面では遠慮や萎縮に見えることもあります。
意味や価値や倫理は、切り取った一場面だけでは判断しにくいのです。
つまり、観測対象そのものが、かなり不安定で揺らぎやすい。
外から見える行動と、内側で起きている思考や感情が一致しているとも限りません。
そう考えると、観測とは「そのまま見る」ことではなく、
揺らぐものを、限られた視点から一時的に切り取る行為だと言えます。
◉ 観測できたとして、比較できるのか?
では、仮にある程度観測できたとしましょう。
次に出てくるのは、それを比較できるのかという問題です。
学校の評価は、多かれ少なかれ比較の要素を持っています。
AさんとBさん、前期と後期、観点Aと観点B。
何らかのかたちで水準を見ようとします。
しかし、「学びに向かう力」の4因子は、そうした比較になじみにくい面があります。
なぜなら、同じ人でも場面によってかなり変動するからです。
たとえば、ある生徒は数学では初発力が高いかもしれません。
問題を見るとすぐに「別解はないか」と考え始める。
でも国語になると急に受け身になることもあります。
また、同じ教科でも、先生や友人やその日の気分で動き方が変わることがあります。
そうなると、「この子の自己調整力は3です」「関係形成力は4です」といった一元的な数値化は、かなり乱暴になるでしょう。
もちろん、何らかの目安は必要です。
ただし、その目安をテストの点数のような単純な尺度で扱えるかどうかは、かなり疑わしいのです。
ここで出てくるのが、相対評価よりも個人内評価を重視する発想です。
他人との比較ではなく、その人の中でどう変わったかを見る。
これは理屈としては非常に納得できます。
しかし一方で、個人内評価を本気でやろうとすると、継続的な観察、記録、対話が必要になります。
つまり、比較の難しさを回避した先に、今度は運用の重さが現れるのです。
◉ 仮に観測可能になったとして、現場で回るのか?
ここで、現場感のある問いに移ります。
その理論、クラスで回るのか?という問いです。
教室は、研究室ではありません。
一人ひとりを丁寧に追いたい気持ちはあっても、現実には人数がいます。時間も限られています。
授業準備、教材研究、生活指導、保護者対応、会議、校務分掌。
先生方の日常は、もともとかなり高負荷です。
その中で、初発力の芽を見取り、自己調整の過程を捉え、関係形成の質を観察し、人間性の方向づけまで考える。
しかも、それを一定の公平性を持って記録する。
これは、理念としては美しくても、運用としては相当に重いと言わざるを得ません。
さらに難しいのは、既存の評価との二重構造です。
知識・技能も見なければならない。思考・判断・表現も見なければならない。
そのうえで、学びに向かう力の観測まで丁寧に行うとなると、現場では「評価のための評価」になりかねません。
ここで問われるのは、理論の正しさだけではありません。
その理論が、日々のクラス運営という“時間と人数の制約空間”に耐えられるかどうかです。
理想設計は必要です。
しかし、理想設計だけでは現場は動きません。
運用設計、負荷設計、記録設計まで含めて初めて、「実装可能性」が見えてきます。
◉ では、その観測技術は誰がどう学ぶのか?
もう一つ、見落とされがちですが極めて重要な論点があります。
それは、評価する側は、その技術をどこでどう学ぶのかということです。
知識テストであれば、比較的扱いは明快です。
正誤や到達度を見ればよい。
しかし、学びに向かう力の観測は、それとは性質が違います。
必要になるのは、単なる採点技術ではありません。
たとえば、
何が起きているかを見抜く観察力
その意味を早合点せずに読む解釈力
断片を蓄積する記録力
本人の内面に近づくための対話力
こうした、かなり高度な“メタ能力”です。
これは、ある意味で新しい専門職性です。
そしてここで問われるのは、個々の先生の善意や経験だけに依存してよいのか、ということでもあります。
教員養成課程の中で、こうした観測理論や実践技術をどこまで学べるのか。
現職研修の中で、どこまで共有し、磨いていけるのか。
もしここが整わなければ、理念だけが先行し、現場には「また新しいことが降ってきた」という疲弊だけが残る可能性もあります。
つまり、評価の問題は、評価票の書き方の問題ではありません。
評価する人を、どう育てるかという制度設計の問題でもあるのです。
◉ そして最大の壁——入試・高等教育と接続できるのか?
さらに視野を広げると、もっと大きな壁が見えてきます。
それが、大学入試と高等教育への接続です。
小中高で「学びに向かう力」を大切にしましょう、と言うことはできます。
しかし、出口にある大学入試が依然として「測りやすいもの中心」で動いているなら、現場には必ず緊張が生まれます。
もちろん、総合型選抜や学校推薦型選抜、ポートフォリオ的な発想は広がってきました。
しかし、それでもなお、選抜には公平性・説明可能性・比較可能性が求められます。
ここで再び、構造評価と選抜制度のあいだにズレが生まれます。
大学側もまた、入学後にその力をどう育て、どう評価し、どう学位に接続するのかを問われます。
もし初等中等教育だけが「構造的な学び」を語り、高等教育と入試が旧来型のままであれば、接続はどこかで切れてしまいます。
つまりこの問題は、学校現場だけの話ではありません。
初等中等教育、大学入試、高等教育をまたぐ“縦の制度設計”の問題でもあるのです。
◉ それでも、やらなければならない理由
ここまで書いてくると、「やはり難しすぎるのではないか」と感じるかもしれません。
その感覚は、とても自然だと思います。
実際、難しいです。かなり難しいです。
ただ、ここで大事なのは、難しいことと、不要であることは全く別だという点です。
社会が求める力は、明らかに変わってきています。
正解を早く出すことだけではなく、問いを立てること、調整すること、協働すること、意味づけることが重要になっています。
知識そのものが不要になるわけではありません。
しかし、知識だけで足りないこともまた、かなり明らかになってきています。
だからこそ、この難しさは避けて通れません。
むしろ、難しいからこそ、そこに本質があるとも言えます。
見えにくいから扱わない。
測りにくいから後回しにする。
それでは、教育はいつまでも「測りやすいものだけを大事にする」構造から抜け出せません。
必要なのは、拙速な完成ではなく、丁寧な試行だと思います。
全部を一気に解決するのではなく、どこまで見取れるか、どうすれば負荷を下げられるか、何を制度として支えるべきかを、少しずつ探っていくことです。
◉ この補章の位置づけ
この補章は、結論ではありません。
むしろ、入口です。
ここまでのコラムで私は、「学びに向かう力」は4因子の循環構造として捉えられるのではないか、と考えてきました。
その見方自体には、一定の意味があると思っています。
ただし、その理論が本当に価値を持つのは、「なるほど」で終わらず、「では、どう扱うのか」という問いに耐えられるかどうかです。
学びは構造である。
だからこそ次に問われるのは、その構造を、私たちはどう観測し、どう記述し、どう育て、どう制度に埋め込むのかということです。
問いは、むしろここから先にあります。
そして私は、この問いを持ち続けること自体が、学びに向かう力を本気で考えるということなのではないか、と感じています。
また、関連する以下のリンク先の記事も、ご参照いただければ幸いです。
プロフィール|Kazuomi Matsunaga
🧭思考の案内人|Thinking Navigator

略歴:九州大学工学部卒業(材料工学)⇒中京地区の金属素材メーカーエンジニア(生産技術)⇒地元長崎県のフリーペーパー広告営業⇒学校法人職員(←いま、ココ)。長崎県在住の50代。こどもは二人とも大学生となって巣立ち、妻と二人暮らし中。
“問い”と“好奇心”の交差点で、日々思考を遊ばせている書き手です。最近は、連載コラム「思好の科楽(しこうのかがく)」シリーズを中心に、教育・物語・心理・AI・デザインなどをテーマとした独自視点の思索を綴っています。既存の枠を超えた“自由な知のデザイン”を模索中。モットーは「想像力が世界をひらく」。
本業では大学・教育関連の仕事に携わりつつ、「人が何かを“好き”になる瞬間」や「問いが芽吹く場面」を丁寧に見つめることを大切にしています。
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