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僕は言葉で「捧げたい」──「推し活」と「祈り」をめぐる覚え書き





信頼している友人から紹介してもらい、とても面白いインタビュー記事を読んだ。



哲学者・宗教学者の柳澤田実さんが、「推し活」「祈り」「無償性」をテーマに語ったものだ。読みながら何度も「うん、そうだよな」と頷き、同時に「なるほど、そういう見方もあるのか」と立ち止まり考えた。


記事はリンクを参照していて、是非読んでもらいたいが、

僕はー
むしろ、その記事を触媒にして、自分の中にあったいくつかの感覚が、言葉としてつながってきた。そのことを書いてみたい。


「自意識過剰」の半世紀

記事の中で印象的だったのは、1970年代以降のニューエイジやスピリチュアル、セラピー文化、さらにはオウム真理教やシリコンバレー的なインターネット文化までを、一つの流れとして捉えていたことだ。

乱暴にまとめてしまえば、それは「自意識の拡張」の歴史である。

「自分を変える」「自分を高める」「自分らしく生きる」「セルフラブ」。
形は違っても、中心にあるのは常に「自分」だ。

そして考えてみると、それは1970年代から始まった話ではなく、もっと長い近代の延長線上にあるのかもしれないと思った。

共同体や神や伝統から切り離された個人が、自らの内面を拠り所に世界をつくろうとする。近代とは、そういう時代でもあった。ニューエイジも自己啓発もSNSも、その大きな川の下流にある風景に感じる。


オウム真理教もまた、宗教というより、「自分を変容させることで世界を超越する」という、近代的自我の暴走として見る方が、その構造は理解しやすいように思う。そして現代における、多くの事件の背後にあるものの多くが、こうした「近代的自我の暴走」と捉えてみる方が、事象の実体を掴みやすい。


「今、ここ」に張り付いた認知

もう一つ、とても腑に落ちたのが、「今・ここ」に人間の認知が縛られている、という話だった。

スマホやSNSは、私たちを現在進行形の感情や映像に引き寄せる。ショート動画もライブ配信も、「いま、この瞬間」に注意を固定する装置だ。

実は、日常の対話でも、似たようなことを感じる場面がある。

僕は何かの出来事を考えるとき、ついつい、それを「流れ」の中に置きたくなる。アイドルの話から時代の美意識の変化へ、音楽の話からカルチャーの変化へ、本屋の話なら出版流通の変化へ、流通の話なら文化から文明の形成へと、少し時間軸を引いて眺めたくなる。

何がどうなって、そうなっているのか。「流れ」フェチゆえの抽象的なメタ認知である。



言うなれば、「歴史的現在」を共有したいのだ。

多くの場合、話材を真ん中に置く
対話は「今、このニュース」「今、この写真」「今、この出来事」に一度回収されないと噛み合わない。

対話をしている時には、相手とフェーズが合わないと感じることがあるのだが、意見が違うのではなく、参照している時間のスケールが違うのような場面が多々ある。


「今・ここ」から少しだけ離れて、もっと長い時間の流れの中で現在を見る。その視点を共有することが、案外難しくなっているのだろう。

僕が伝えて受け取りたいのは、歴史的現在としての「ここと、あそこと、きみとぼく」だからだ。





記事の中で紹介されていた宗教人類学者の考え方に、「祈りとは、自分の願いを一度外に出し、それをもう一度自分で見つめ直すメタ認知の営みである」という話があった。

それを読んで、妙に納得してしまった。

ああ、自分がnoteにコツコツと文章を書いているのは、情報発信というより、祈りをやっているんだな、と。

僕のモノコトフロー研究note


もちろん、「願いが叶いますように」という意味だではない。

頭の中にある違和感や、まだ形になっていない感覚を、一度言葉にして外に置いてみる。そして、自分自身もそれを読み返して、「ああ、自分はこんな景色を見ていたのか」と、もう一度確かめる。僕にとって書くことは「考える」こと。考えたいから「書いてる」に等しい。

そうすると、
書くことによって、自分の認知を「今・ここ」から一段引き上げる。そんな作用が、確かにあるように思う。


「推し」と「推し活」は、少し違う

記事では「推し活」が現代の宗教性を代替しているという話も出てきた。めちゃわかりやすい構造で受け取ることができた。


なるほどと思いつつ、読んでいて一つだけ、自分の中で補正というか追記というか、加えたいものが生まれた。


それは、「推し」と「推し活」は、少し違うのではないか、ということだ。

うー、そうだな。言葉にするなら、

推しは、少し閉じている。
推し活は、次へ向かって開いている。

推しは、自分と対象との関係の中で完結することがある。けれど、推し活はそうではない。

ライブの感想を書く。
ファンアートを描く。
イベントを企画する。
友人にその魅力を語る。
誰かの作品を読んで、自分もまた何かを作りたくな
etc…

推し活をしている人は、単なる消費者ではない。
彼らは、価値を受け取り、それを自分なりに編集し、別の誰かへ手渡しているし、直接的であれ、間接的であれ、創作者の次のエンジンになっている。言ってみれば、「二次生産者」なのだ。


僕が祈っているもの

ここまで考えて、ようやく自分の中で一つの言葉につながった。

僕が祈っているのは、何か特定の対象の成功や、自分自身の願望の実現だけではない。

人から人へ。
世代から世代へ。

価値や文化や関係性が、ちゃんと流れていくこと。受け取った人が、また次の誰かへ、それを少しだけ自分なりに編集して手渡していくー

そういう「流れ」そのものを、自分は信じているし、願っているのだと思う。

だから、誰かの活動を紹介することも、小さな本屋を応援することも、友人の文章に感想を書くことも、noteに考えを綴ることも、見方の提示をする時も、自分の中ではどこか同じ地平にある。

どれも、価値の流れがここで途切れないように、次の誰かへバトンを渡す行為だからだ。

そして、もしかすると、「編集という営み」
そのものが、一つの祈りなのかもしれない。

世界に散らばる小さな価値を見つけ、それらの間に流れを見出し、言葉にして、また次の誰かへ手渡す。その流れが、この先もどこかで続いていくことを願いながら。

僕は言葉で「捧げたい」。




浅沼正治


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