幽霊の見える僕と、1週間後に死ぬ彼女の、世界一静かな日々 [ショートショート]

ぼくには幽霊が見える。
見える、というよりも、輪郭と、微かな気配がわかるのみだけど。
湿ったガラス越しに街を見るときみたいに、視界の解像度が部分的に落ちる。
彼女にその話をしたことはない。
話したところで、きっと彼女は静かに頷くだけだろうと思ったから。
彼女は雨が好きだった。
とくに、雨の日の室内。
「こうしてると、まるで映画のスクリーンみたいね」
「音は無いのに、部屋の中に降っているみたいで好きなの」
そう言って、カーテンの隙間から眩しげに目を細めた。
彼女の視線はどこか一点に留まるというより、ゆっくりと、静かに流れていく。
まるで、空間そのものをなぞるみたいに。
一週間後、彼女は死ぬ。
それは彼女自身が選んだ、静かな決定だった。
「ちょうどいい気がするの」
理由のない確信。
ぼくには、それがわかる気がした。
その日から、彼女はよく「ありがとう」と言うようになった。
コーヒーに、猫に、雨音に。
何かを手放している顔だった。
掴む代わりに、指のあいだから静かに流していくような。
部屋には紫陽花があった。
コンクリートの壁と硝子の花瓶のあいだで、色が時間とともに変わる。
朝は鈍いペイルブルー、昼にはほんのりとした薄藍。
その色は、ひとつに定まらない。
層になって、ゆっくりと空間に溶けていく。
彼女はスマートフォンを伏せ、しばらくそれを見つめる。
視線がまた、わずかに流れていく。
そこにある確かなものから、触れずに遠ざかろうとするみたいに。
猫は窓辺で外を見ている。
緑の瞳が、何かを追うように揺れる。
たぶん、その先には幽霊がいる。
ある午後、床に透明な足跡を見つけた。
濡れていないのに、そこだけ光の屈折が違う。
猫はそれを追い、部屋の隅で止まる。
何もない場所を見上げる。
彼女は少し笑った。
「誰か来てるのかもね」
ぼくは答えなかった。
たぶん、本当に来ている。
彼女の残りの時間が、部屋のなかに広がっていた。
日を追うごとに、目に見えないまま、ゆっくりと濃度を増していく。
一週間は驚くほど静かに過ぎた。
雨は、ほとんど毎日降った。
最後の日。
彼女は窓の前に立っていた。
紫陽花は、わずかに色を深くしている。
「ねえ」
「私がいなくなったあとも、ここに何か残るかしら?」
ぼくは、目を閉じながら言った。
「ぼくの中の君は、変化し続けていくんだよ」
彼女は頷いた。
そして、とても静かに「ありがとう」と言った。
その瞬間、猫の瞳が鋭く動いた。
部屋のどこかで、何かが一度だけ、紅葉した葉のように燃え上がり、それはすぐに消えた。
雨は変わらず降っている。
それからも、ときどき透明な足跡を見る。
猫は今でも、何もない空間を見つめる。
紫陽花はもうない。
けれど、あの色の重なりだけが、まだどこかに残っている。
名前のないまま。
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あとがき
生と死、存在と不在の境界線を、劇的な展開を排して描いてみました。
「消滅とは終わりではなく、世界へ溶けていくグラデーションである」という思想を根底に、雨の音と手放していくことの美しさを綴りました。
失われたあとも形を変えて残り続ける「何か」を感じていただければ幸いです。
