火獄への道:《聖典クルアーン》「町章」をめぐって
マッカにおける迫害
町章。カサムの引き合いに、《この町》すなわち、ムハンマドの住んだマッカが登場する。さらに、アーダムから繰り返し続けられてきた人間の世代交代を示唆する親と子、すなわち《生む者と生まれる者》も引き合いに出されている。
لَا أُقْسِمُ بِهَذَا الْبَلَدِ {1} وَأَنْتَ حِلٌّ بِهَذَا الْبَلَدِ {2} وَوَالِدٍ وَمَا وَلَدَ {3}
لَقَدْ خَلَقْنَا الْإِنْسَانَ فِي كَبَدٍ {4} أَيَحْسَبُ أَنْ لَنْ يَقْدِرَ عَلَيْهِ أَحَدٌ {5}
يَقُولُ أَهْلَكْتُ مَالًا لُبَدًا {6} أَيَحْسَبُ أَنْ لَمْ يَرَهُ أَحَدٌ {7}
①われはこの町において誓う。②あなたはこの町の(居住権を持つ)住民である。③生む者と生まれる者にかけて(誓う)。④本当にわれは、人間を労苦するように創った。⑤彼(人間)は、なにものも、自分を左右するものはないと考えるのか。⑥かれは、「わたしは大変な財産を費やした。」と言う。⑦かれは、誰もかれを見ていないと考えるのか。
そして、そこで宣言されるのが、まずは人間の本質の一つ「人間は労苦の中にある」ということである。
実に、この啓示が降ったころのムハンマドたちの状況は、まさに困難と厳しさの中にあったとされる。人間は、弱く創造されたというのにもかかわらず、マッカの多神教徒たちは、ムハンマドたちに対して迫害を繰り返していたのだ。彼らにはアッラーの存在も、その力能も、ムハンマドの派遣も、来世の復活も、すべて虚偽であり、徹底的な否定の対象でしかなかった。
中でも、迫害を支援して金に糸目をつけなかった、アブルアシャッド・ブン・カルダに対して、本節は下ったと注釈学者たちの見解は一致しているという。彼は、湯水のごとく、ムハンマドとの敵対のために財を費やし、多神教徒からの称賛をもほしいままにした。ムハンマドの背負い込まされていた労苦がどれほど大きかったか。この啓示にはムハンマドに対する気晴らし、あるいは慰めの側面があるという指摘も頷ける。
むろん、カルダには、自分が誰かに押さえつけられるなど思いもよらないし、ましてや、誰かに監視されているなどと考えるはずもない。ムッダシル章30節に《そこに19》というアッラーの御言葉があるが、それは、地獄の看守の数であるとされ、コルトビーの注釈によれば、棕櫚章の、アブー・ジャハルからそれを聞かされたカルダは、「19人のうち17人は私が何とかしますから、あなた方で残りの二人を負かしてくれ」と言ったとも、あるいは「19人のうち10人は右肩に、9人は左肩に(載せて)火獄に放り込んでやる」と言ったともされる。
これに対しては、《火獄の看守とわれらがするのは、天使のみ》(ムッダシル章31)と啓示が降っている。カルダは、現世で改宗することはなく、裁かれることもなかった。結局、来世での裁きに委ねるしかなかったのであり、ムハンマドとその仲間たちに対する迫害が続けられ、啓示が降ることで事態を甘受しなければならなかったムハンマドには、それもまた労苦になったように思われる。
有頂天になる人間たち
いったん、ムハンマドの苦悩から離れてみよう。つまり、人間一般に対するメッセージとしてこれらの応答部を読んでみよう。まずは、労苦から無縁であると思うかもしれない。確かに調子に乗っているとき人は、疲れ知らずだ。調子に乗れているということは、周りの支えや協力があり、かつ、体調も良いということだが、そのことを忘れてしまう。いや、精子が卵と結合し子宮に着床し、10カ月あまり成長してから出産を通じてこの世に誕生し、心身共に成長の諸段階を上り、やがて年老いて一度目の死の迎えを待つ。この一連の流れは、人間にとって「苦難と忍耐」の連続である。本節において労苦の語が「カバド」であらわされていることからもわかる。カバドは、キブド、すなわち「肝臓」と同じ語根の言葉だからである。沈黙の臓器。黙々と機能を果たし続ける。つまり人間の労苦とは、労苦だなどと思いもしないということが起こりうるのだ。ただ、ひとたび声を上げたときには、労苦を続けること自体が難しい状態、身体全体の機能不全にもつながりかねないのだが、身体への負担をよそに、人間は動き続けてしまうのだ。
身体や心への労わりを知っていれば、多少は、生きていることに対して感謝をしたり、謙虚になったりするかもしれないが、ただただ、調子に乗っている人間というのは、圧倒的に怖いもの知らずでもある。誰かが、自分を押さえつけるなんて、ありえないであろう。万能感も半端ないので、そのときはやりたい放題である。正義も法も我にありだ。お金などあった場合には、さらに具合が悪い。後先も考えることなく、好きなものには好きなだけ使ってしまう。足りなくなれば、だましてでも、盗んででも、ばれなければいいと、人のものを取ってしまうかもしれない。誰かが自分のことを止めることができるなどつゆほども思っていない。ましてや、誰かが自分のことを監視し続けているなんて。《人間はすぐに有頂天になり、すぐに落胆する》。これもまたアッラーの教える人間の特性である。
「われわれ」が登場する
それに続く第8節から10節は、アッラーの語り口が変わる。
第5節と第7節の「誰も~ない」では、不定名詞を用いた否定文で、それが具体的に何者であるのかをあえて言及していない。(⑤…なにものも、自分を左右するものはない…、⑦…誰もかれを見ていない…)しかも第5節では未来について、第7節では過去について完全な否定の形をとっている。
これに対して、それに続く3つの節では、動作の主体が明確に示される。動作それ自体は完了時制で表されている。
أَلَمْ نَجْعَلْ لَهُ عَيْنَيْنِ {8}
وَلِسَانًا وَشَفَتَيْنِ {9}
وَهَدَيْنَاهُ النَّجْدَيْنِ {10}
直訳すれば、「われわれは人間に二つの眼をつくらなかったか、舌と上下の唇も」とでもなろうか。強制や監視の話ではない。強制や監視の話は、そういったことに心当たりのある人々には訴えるが、そうでなければ、スルーされてしまう。もちろん、あの強力な多神教徒に対する啓示なのであるから、リアルタイムでそれを聞いた人々にとっては、彼らの、彼らにとっての悪事を、アッラーは見抜かれているのだと確信を強め、あるいは、そこに希望を見た課かもしれない。この執拗きわまりない迫害も、アッラーが御存じである以上、必ずや終わりを迎えることであろうと。
それを受けて、何が語られたかといえば、両眼と、舌と、上下の唇の創造である。それも、否定疑問文の形で、完了時制を用いて、主語を明示する形で語っているのである。完了時制は、単に動作が完了したり、過去に行われていたりという意味を超えて、アッラーの行った普遍的な行為を示すときにも用いられる。クルアーンにおいては、我々という一人称複数形のときも含め、アッラーが主語のときは、完了形が圧倒的に多い。(人間の行為は未完了形で語られる)。人間であれば、信者であろうがなかろうが、眼も舌も唇もあるよね。目や舌や唇をあなた方の神は創ることができますか。いやできないよね。私たちにもあなたがたにも、眼も舌も唇も創ったのが、創造主たる「われわれ」なのだよ。第4節の「ハラクナー」に引き続く「われわれ」を主語にする完了時制。眼があれば見ることができてそれをもとに判断もできるし、舌があれば、声も出るし言葉も発することもできて、心の奥底も表すこともできる。上下の唇があればこそ、発することのできる音があるし、飲食や息の吹込みもできるようになるのだ[1]。
アカバの在処
イブン・マスウードは「それらはアッラーが人間たちに対して与えた恩恵の誇示だとし、それを知ればアッラーを承認し彼に感謝するようになる」としたとされるが、この解釈は、信者の側に傾きすぎていると言わざるを得ない。それは次節を読めばわかる。「われわれは、彼を二つの道に確かに導いたし、導き続けている」と言う。
وَهَدَيْنَاهُ النَّجْدَيْنِ {10}
サーブーニーの注釈では、「われわれは彼に善と悪の道を明らかにした」となっていた。それは、善と悪。《実にわれらは彼をしかるべき道に導いた。感謝するもの(の道)、あるいは不信心を働く者(の道)》(人間章3節)にも言及されているようにである。信者が求めるのは、《信仰のまっすぐな道》(開端章他)に導いてもらうこと。しかし信者たちのその願いとは別に、善の道と悪の道が用意されているというのだ。カルドのようにムハンマドたちを迫害した輩が歩むのは、悪の道の方であろう。眼と舌と唇を与えられていたとしても、悪の方のナジュドを歩む者も想定されているのだ。
しかし、たとえ善の道に導いたとしても、それをアッラーが望むように当の信者たちが歩むか否かは、別のことのようである。二つの道に導いたとした後の御言葉が、《彼(=人間)は険しい道(アカバ)に入ろうとしない》(第11節)だからである。
فَلَا اقْتَحَمَ الْعَقَبَةَ {11} وَمَا أَدْرَاكَ مَا الْعَقَبَةُ {12}
アッラーズィーは、「アカバ」の語について、来世のものとする見解と、現世のものとする見解とがあるとしていた。前者によれば、アカバにはいくつかの意味が考えられるが、地獄の火あるいはそれにつながる何かとしてまとめることができそうだ。ただしこの解釈は文脈的にも現実的にも無理があるように思われる。なぜならば、誰もすき好んで火獄に入ろうとはしないのだから、そうしないことは非難や叱責の対象にはなりえないからである。二つの道のあることが示されている中で、アカバにはあえて行こうとしない。アカバとは、来世の火獄の火だと言ってしまっては、二つの道のうちの悪い方を指すことになってしまって、その後の聖句とのつながりに段差ができてしまう。
暴政は終わるのか
むしろ、ここでは、アッラーズィーの紹介する所説を組み合わせて、①アカバが何かを知らせるものは何かという問いが成立する点と、②完了形の動詞「イクタハマ」が用いられている文章にもかかわらず、否定詞が「マー」ではなく「ラー」であるという点から、アカバは現世に属する事柄であることを説明できそうだ。
①に関しては、この問いの答えは、抽象的なものであれ、具体的なものであれ、この世に存在するものでなければならない。あの世の火だと言ってしまったのでは答えにならない。そもそも、アカバという言葉自体が険路という喩えでもある。
②に関しては、完了形動詞と否定詞「ラー」とは、否定を重ねる場合には併存が可能であるとされる。その後ろ二つの聖句に、否定詞は用いられてはいないが、ラーをつけて否定が反復していると読むことは可能だというのだ。つまり「人間というのは、険路に踏み込まないし、奴隷を解放しないし、孤児に食べ物を与えない、」という具合である。
فَلَا اقْتَحَمَ الْعَقَبَةَ {11} وَمَا أَدْرَاكَ مَا الْعَقَبَةُ {12}
فَكُّ رَقَبَةٍ {13} أَوْ إِطْعَامٌ فِي يَوْمٍ ذِي مَسْغَبَةٍ {14}
يَتِيمًا ذَا مَقْرَبَةٍ {15} أَوْ مِسْكِينًا ذَا مَتْرَبَةٍ {16}
このように読んでいけば、「人は険路になかなか踏み込もうとはしない。その険路が何なのかを教えてくれるものは何だろう。奴隷の解放。そして、飢饉の際の糧食の拠出」と読め、奴隷を解放してみたり、飢饉の際、孤児に、埃まみれの貧者に、近くの困窮者に、食料を差し出してみたりする。確かに平坦で広い道ではない。険しさをかき分けながら、自分自身とも自分の欲望とも、闘いながら、進む道なのである。
ちなみに、ここに列挙されている善行の数々は、最善の善行であるとされる。そこには、隷属からも飢えからも解放され、人間としての尊厳が守られる社会像が見えてくる。こうしてみると、イスラームの根源的な考えは、人間の安全保障と極めて高い親和性を有していることが分かる。しかし、その一方で、アブー・ジャハルもカブドも不信心者のまま亡くなり、審判は来世に任されていたし、アカバに入ろうとしない人間たちには、これらの高度な善行も、努力目標の提示にとどまりうることも否定できない。イスラームのこの教えを現実化するために必要なものは、とにかく、個人の目覚めとそれを契機にした変化であろうか。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
脚注
[1] アッラーズィーは、ここに言及されている3つの器官は、解剖学の書物に扱われているものであるとしている。(『アッラーズィーの大注釈書』第11巻167頁)彼が聖典の注釈を行なう際に最先端の医学的知見を参照していたことをうかがわせる。
主要参考文献
صفوة العفاسير للإمام الصابوني، بيروت: شركة أبناء شريف الأنصاري، 2005
アッラーズィー『アッタフスィール・アルカビール』町章の注釈
タイトル画像:
現代のマッカ中心部
