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道の先を塞ぐ影に「アイデア」を[1]:デジタル封建制を超えていけ

「権力」の監視

ここ5年にわたって家庭教師で面倒を見ている生徒が高校1年生になり、昨年までの「国語」が「現代国語」に変わった。いわゆる「現国」だ。半世紀の時を超えて「現国」の教科書を読むというのも、なかなか感慨深い。あの頃には扱われるはずもないテーマの評論文があったりして、思わず批判精神に火が点く。
ジャーナリストの観点から論じた「権力」論の一文に思わず引き寄せられてしまった。
曰く、「しかし、いずれにしても、デジタル化とグローバル化の中、権力の在り方は変化しています。ますます不可視化され、抽象化され、そして日常に遍在するようになった「権力」に対して、ジャーナリズムは監視の手綱を緩めてはいけないというのが今日の結論です」[2]
デジタル化もグローバル化も筆者15歳の50年前にはなかったけれど、特に気になったのが、「ますます不可視化され、抽象化され、そして日常に遍在するようになった」という「権力」の在り方だ。

「大権」を思う

「不可視化され、抽象化され、日常に遍在する」と言ったら、50年後の私は、アッラーを思う。アッラーの権力、すなわち「大権[3]」の在り方がまさにこれなのだ。少なくともアッラーをこの世で見ることはできない。徴しは、見ようと思えば、いくらでも見ることはできるが、アッラーご自身については、NGだ。アッラーという名前は付けられているが、その抽象度は極めて高い。万有の主であるという性質上、あらゆる被造物、目に見えるもののレベルから、原子、素粒子のレベルにいたるまで、あらゆる具象物を包み込む抽象度を持つ。そして、それこそすべての事物事象について、「あれ」と命じることによって、存在させる御方。この「あれ」こそが創造の力。単なる「権力」では言葉が足りない。何しろ、この力は、この世の、そしてあの世も含め、すべての存在に及ぶ。「大権」と称されるゆえんだ。

「数Ⅰ」から「アイデア」を

それに比べて、ジャーナリストのいっそうの監視が必要とされる説かれている「権力」とは、一体何か。首相や大統領、国会等にとどまらず、時にプロパガンダを流して、ポピュリズム政党を勢いづかせるグローバルな広告会社、あるいは、今や公共財とも言える、情報プラットフォームの利用を通じてビッグデータに情報を蓄積し続け、人々の行動を監視し時に誘導しさえするGAFAMなのか。とてもではないが、ジャーナリストの監視では、追いつくはずがない。
つまり、これを、「数Ⅰ」[4]的に言えば、個別の権力あるいは権力と目されるものを集合の要素として、それらを括る「権力」という「全体集合U」を設定することに他ならない。そして、その一つ一つの要素、たとえば首相や政党、広告会社、AIなどを、具体的な権力対象として検証、すなわち真偽の判断、すなわちそれぞれの正義の評価が行なわれる。論理的にこれを進めようとすれば、どうしても、要素ごとの権力の検証に向かわざるを得ない。

「全体集合U」の呪縛

集合理論は、明快だが残酷だ。権力Aに対して、その反対勢力は、権力否A、権力Aが正義を主張すれば、権力否Aは、すべからく不正義となる。
その状態に対して、権力Bが新たな要素として加われば、権力Aと権力Bの正義同士の戦い。正義同士の争いは力によって決着がつけられるとなれば、権力Aでも権力Bでもない人々までもが、否応なく、戦いに巻き込まれ、続くはずの日々の道が断ち切られるという犠牲を強いられる。
結局、「権力」という全体集合の要素として、最近は、人工知能がかつての領主の位置を占めるようなものまでもが数え上げられるに至っているが、権力Aに対する権力否Aなり、抵抗勢力権力Bなりという構図は変わらない。結局はその中の真偽論が先鋭化してしまって、暴力や富の偏在が正義面をして現われてしまう状況が顕在化するばかりだ。

「アイデア」は「ブルーイ」の夢の中に

こうして考えてみると、道を先を塞ぐ影の正体は、権力という「全体集合U」だということが分かる。その要素が小さすぎるのだ。アッラーの大権に比べてみれば、権力には、これまでの全体集合Uには、収まらず、そこからはみ出し、あるいは超えて、もっと大きな全体集合の中の部分集合であると考えてみることがとにかく必要なのだ。
ヒントになるアイデアは偏在した権利が現出するさりげない日常の中にある。たとえば、ブルーイ( Bluey )[5]の夢。お母さんに本を読んでもらって眠りについてものの、今度は、夢の世界へ。地球の殻を破り、宇宙の遊泳を思いのままに楽しむ。そしてもぐりこんだ両親のベッドでもフワフワ。おなかを何度も蹴飛ばされたお父さん、ブルーイを抱きかかえてベッドへ戻す。ささやかだけれど、平和な日常。
ブルーイのこの夢の出てきたもののなかに、「小さい全体集合U」の要素の造り出したものは何一つない。

ジャーナリズムの役割

世界が右傾化する現状の中で、日本国家の行き先を問う声は、今回の参議院選挙の中でも聞かれないわけではなかった。しかし、物価高により生活状況がひっ迫する中で「小さな全体集合U」の中の不自由な選択肢の中から、窮極の2択を迫られるような選挙にあっては、国家のありようの落ち着いた議論は期待できない。
ジャーナリズムにしても、この「全体集合U」の要素について伝えれば伝えるほど、要素間の対立の激化を招き、「全体集合U」の枠組みを強固にしていきはしなかったろうか。たしかに、「小さな全体集合U」の中の要素は増えた。しかし各党の国益の主張の陰にそれぞれの党利党略が渦巻いていて、道はすっかり塞がれた格好だ。
権力の「全体集合U」を「大権」のレベルにまで引き上げたとき、その要素に加わってくるのは、むしろ、すべての人間にとって開かれた人権、言い換えれば、ブルーイが安心して夢を見ることのできるような小さな、だけれどとてつもなく大きな「権力」かもしれない。

影を晴らそう

アッラーは、存在し続けていて、しかも全知全能。どこかの、あるいは誰かの利益のためにあるのではない。アッラーを語っている地上の権力者には、とにかく注意。確実にやがて死にゆく彼らとは、まったく異なる存在だ。ただ、その一方で、人間たちとともに存在し続けていることも確かだ。「大権」は、ひとりひとりに向けられたもの。いつでも、だれでもその大きな権力の恩恵に浴することができるのだ。
おそらく、そこで必要なのはジャーナリストの活躍ではない。他人任せにできる事柄ではないのだ。むしろ、一人一人が、たとえばブルーイの夢を壊さぬような学びで私たち人間を存在させている力について識ることから始まるのであろう。
そんなアイデアにめぐり合わせてくれたのが、星野源とブルーイを教えてくれた20年来の教え子たち。加えて、50年後の「現国」と「数Ⅰ」の学びに感謝しつつ。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。

脚注

[1] 「アイデア」は、星野源「アイデア」より
[2] 林香里「現代の「世論操作」」高等学校『精選現代の国語』現国714、第1学習社。
[3] たとえば、聖典クルアーンには次のようにある「لِلَّهِ مُلْكُ السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضِ وَمَا فِيهِنَّ ۚ وَهُوَ عَلَىٰ كُلِّ شَيْءٍ قَدِيرٌ (120)」(天と地とその間にあるすべてのものの大権(المُلْكُ)はアッラーにある。彼はすべてのことに全能である)。
[4] ここでは、『NEXT数学Ⅰ』高等学校数学科用、数Ⅰ、数研出版の記述を参照した。
[5] ブルーイはジョー・ブルーム作のオーストラリアの人気アニメのタイトル、主人公。テレビ東京で放映中本稿が参照したのは "Sleepytime"S2 E26

Special Thanks to : ChatGPT-4o


タイトル画像:

Special Thanks to: テレビ東京「ブルーイ」番組公式ページよりトリミング


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