Photo by
koreatterunokana
自由について 自らを由とすることだと思った
小1の頃、「将来何になりたいか」という問いについて、あらためて考えてみた。幼少期からペガサスが好きでよく描いてこともあり、ギリシャ神話や哲学を嗜好していたので、哲学者になり「自由」を探求しようと思った。そして、その時にも自由について色々と考えてみたが、ピンとくるものは何一つでてこなかった。
今はどうか
自由とは「自らを由とする」ことに辿り着いた。
その自らは、自を我とする自我の自ではなく、真(愛/神/全て)としての自である。
ここからは、少し言葉遊び
検索によると、「我」は元々ノコギリの刃と戈を組み合わせた武器や「切り分ける道具」を意味していたそうで、分離を前提とした自我のニュアンスとしっくりくる。
「真」は様々な謂れがあり、旧字の眞では匕(さじ)と鼎(かなえ)を組み合わせ器に物を満たす様子や、七や八を要素とし仙人が姿を変えて天に昇る様子を表したらしい。
オドロしいものには、鼎ではなく、首を逆さにした県とした説も出てきた。 そういえば昔、修行をしていた時、無意味なことをリピートし続ける思考を煩わしく感じていた頃だった。立山の洞穴で風化して頭のもげた地蔵群をみて、目指している状態を重ねたことがある。そのようなことから、首を逆さ→自我の思考がひっくり返り、その上に「十」が乗っている「真」は、真実・実相であるものを象徴しているようだと思った。
大昔の自分へ答え
分離の幻想から目醒め、愛・宇宙・神そのものである自=真を由とするのが、自由なのだと思った。
真は肉体ではないし、幻想はどうにでもなるので自由自在、そもそも幻想に囚われることもない。
