官能の果てに落ちる人💝瀬戸内寂聴『爛』の大江茜(おおえ あかね)
官能の果てに落ちる人!
瀬戸内寂聴『爛』と「本能覚」の文学
人はなぜ、わかっていながら落ちていくのだろうか
傷つくと知っている
失うと知っている
世間から見れば愚かだと知っている
それでも、ある人の声、匂い、視線、沈黙に触れた瞬間、理性の階段を一段ずつ踏み外してしまう
瀬戸内寂聴の『爛』に流れている官能とは、ただ肉体が求め合う熱ではない
もっと深いところにある
人間が人間として保ってきた形が、愛欲によって少しずつほどけていく、その崩壊の温度である
そこで働いているのが、五感を超えた感覚
つまり 本能覚 である
本能覚とは、目で見た美しさでも、耳で聞いた甘い言葉でも、肌が覚えるぬくもりでもない
もっと前にある
まだ相手に触れる前から、体の奥が「この人は危ない」と知っている
それなのに同時に、「この人から逃げられない」とも知っている
その矛盾した震えこそが、本能覚である
『爛』の女たちは、ただ恋をしているのではない
自分の中に眠っていた獣のような感情を、相手によって呼び覚まされている
嫉妬、執着、羞恥、陶酔、敗北感
それらは、きれいな恋愛の言葉では包めない
愛しているから苦しいのではない
苦しいところまで連れていかれるものを、愛と呼んでしまうのである
純文学の作家が書く官能小説が、通俗的な官能小説と大きく違うのはここにある
官能を、快楽の場面としてだけ描かない
むしろ、快楽の向こうにある孤独を描く
欲望の先にある老いを描く
抱かれても埋まらない空洞を描く
愛されてもなお消えない飢えを描く
谷崎潤一郎も、川端康成も、三島由紀夫も、そして瀬戸内寂聴も、性愛を単なる刺激としては描かなかった
彼らが見ていたのは、性の奥にある人間の業である
人はなぜ、誰かを欲しがるのか
人はなぜ、愛と支配を取り違えるのか
人はなぜ、満たされたいのに、自分を壊す相手を選んでしまうのか
その問いを突き詰めると、官能は美しいだけのものではなくなる
官能は、ときに宗教に近い
救いを求めて近づいたはずなのに、気づけば身も心も焼かれている
その炎の中で、人は初めて自分の本性を見る
『爛』という題名も象徴的である
爛れる
熟れる
崩れる
美しく咲ききったものが、やがて熱を持ち、匂いを放ち、形を失っていく
官能の果てに落ちる人とは、欲望に負けた人ではない
むしろ、自分の本能覚にあまりにも正直だった人である
理性は言う
「やめておきなさい」
世間は言う
「それは間違っている」
経験は言う
「また傷つくだけだ」
それでも本能覚は、もっと低い声で囁く
「この人を知らずに生きることはできない」
この声が恐ろしい
なぜなら、それは正しいか間違っているかを超えているからである
幸福になれるかどうかさえ、問題にしていない
ただ、魂の奥で反応してしまったものへ向かって、人を歩かせる
瀬戸内寂聴の官能文学が伝えているのは、性愛を賛美することでも、不倫や愛欲を美化することでもない
人間は、どれほど知性や道徳を身につけても、最後には説明できない衝動に突き動かされる存在だということだ
そして、その衝動の中にこそ、人間の弱さだけでなく、哀しさ、可愛らしさ、生々しい命の輝きがある
官能とは、体の事件である前に、魂の事件である
触れたのは肌なのに、傷つくのは心
求めたのは相手なのに、暴かれるのは自分
満たされたはずの夜のあと、いちばん深い孤独が目を覚ます
『爛』を読むことは、誰かの恋を覗き見ることではない
自分の中にもある、名づけにくい渇きを見つめることである
五感で恋をするうちは、まだ引き返せる
美しい顔
優しい声
甘い匂い
肌のぬくもり
けれど、本能覚が目覚めてしまった恋は違う
その人の存在そのものが、自分の中の暗い水脈に触れてしまう
そこから先は、恋ではなく、落下である
官能の果てに落ちる人
それは愚かな人ではない
人間というものの深みに、足を踏み入れてしまった人である
瀬戸内寂聴『爛』は、その落下を責めない
ただ、燃え尽きるまで見つめる
女の生が、愛欲によって乱れ、傷つき、それでもなお艶を失わない姿を、静かに、しかし容赦なく描く
純文学の官能小説が伝えたいことは、きっとこういうことだ
人間は、きれいごとだけでは生きられない
愛は、ときに人を救うより先に壊す
欲望は、ときに罪でありながら、生きている証でもある
そして、どれほど爛れても、そこにしか咲かない花がある
その花の匂いを嗅ぎ分ける力
それが、五感を超えた感覚――本能覚なのだと思うのです

これは、個人的な瀬戸内寂聴さんの『爛』の中の大江茜(おおえ あかね)への思いです。
あなたは・・・
