【エッセイ】エッセイの本質
エッセイの本質は内容ではなく、誰が書いているか。ここが寛容であると考えている。
そのため、エッセイの内容がまったく同じであったとしても、その人の生き様が内容に深みを持たせる強烈な武器となり、そのままエッセイの戦闘力として、加算されているようにさえ、思う。
要は、名言と同じだと考える。
どこの馬の骨とも分からない馬のような人間が、素晴らしきエッセイを書いていたところで、かなりのハンデ戦になる。
もちろん、例外はある。
エッセイ単体の内容が最上級に素晴らしく、かつそのエッセイに、その著者の人となりが思いっきり凝縮されており、そのエッセイを読むだけで、ああ、この書き手はすごいんだなあ。
と、認められ、馬の面を脱ぎ捨てられるのであれば、あるいは一瞬で、世に認められるだろう。
でも、やはりそれは一撃必殺のパンチが必要である。読者および編集者をすぐにKOしなければならない。
それは誰も、見た目だけで味の薄そうなお茶よりも、渋みのあるザ・お茶を好んで飲むのと同じような構造だと思う。エッセイ単体で深みを出すのは、至極、困難な道のりである。
それでも、だ。
馬のような著者であっても、エッセイをいつかお金のもらえるものにしたいと思っている。夢想している。
だからこそ、著者はエッセイを書き続けている。
現時点で、著者がおそらく個性を出せる分野は文章を仕事にし、文章を趣味にしている文章狂想である点だけだろう。だからこそ、今は趣味として、エッセイをひたすらに書き続ける所存だ。
この書き続ける道だけが、いつか著者を馬の骨ではなく、人の骨として機能させ、昇華してくれるだろう。その唯一の道であると信じている。
年輪としてエッセイが刻まれ、著者の綴る文字の連なりが、深みのある極上のお茶になると信じている。
そこに至るまでの軌跡もまた、エッセイになると信じている。
