介護は、自己満足でいい。
「長生きは幸せなのか」
義母の介護が始まり、高齢者の世界を知るうちに、私の中にこんな疑問が生まれました。
様々な場面で、綺麗事では済まない現実にぶつかります。
長生きは幸せなのか。
そして、介護は誰のためにするのか。
正解は、後からしかわからない
手術をした。
回復した。正解だった。
手術をした。
思った以上に長生きすることになった。どうしよう。
手術をしなかった。
いい頃合いに逝くことができた。
手術をしなかった。
痛みや苦しみの中で亡くなった。
同じ「した」「しなかった」という判断でも、結果によってまったく違う意味を持ちます。
そして決断する時点で、その結果は誰にもわかりません。
義母が在宅に戻らず、施設に入ったこと。
その時の私の判断として、とても迷ったところでした。
「何もできない」という義母でしたが、無理矢理でも自宅に帰して生活していたら、実は成り立っていたのかもしれない。
でもやっぱり無理で、施設に入ればよかったと思ったかもしれない。
「正しい選択だったのか」は、後からでもわからないことなのかもしれません。
それなのに私たちは、結果を見て「正解か間違いか」を判断しようとする。
しかもそれは、大抵すべてが終わってからです。
後からなんて、何とでも言える。
その渦中で苦しみながら判断してきた人のことを、悩みや苦しみに関わっていない人間が「結果を求めたがる」。
共に親に向き合い、悩んできた人のことを「正解」「間違い」と決めるのです。
聞けないまま迎える最期
最近の医療は発達しすぎて、自然に死ねなくなってきていると聞きます。
過剰な治療をする前に、「どう死にたいのか」を確認しておく方がいい。
そのことは、多くの人が知っています。
でも元気なうちは「まだ元気だし」と先延ばしにして、いよいよとなると「こんな状態の人に、死ぬときのことなんて聞けない」となる。
私自身、実母とこの話をしたのはつい数日前でした。
「その話をしよう」と思えば思うほど、できないものなんだなって感じています。
今、介護に携わって初めてわかったことがあります。
「聞く勇気がない人には、いつまで経ってもその時は来ない」ということです。
結局、救急で病院に運ばれたとき、本人も家族も「聞いていないから」という理由で、とりあえず治療や延命を行う。
「治療をやめてほしい」と言えば、その人が結果論での悪者になりかねないからです。
介護をした挙句、「なぜこの選択をしたのか?」と責められるなんて、理不尽すぎると思いませんか?
ここから先は、介護の現場で私が実際に感じた「家族関係のしんどさ」と、「誰が決断を背負うのか」という現実、そして最終的に私が辿り着いた答えを書いています。
介護中で気持ちが揺れている方。
親への感情に戸惑っている方。
きれいごとでは整理できない思いを抱えている方。
そんな方にとって、自分の気持ちを言葉にするヒントになるかもしれません。
単体購入もできますが、メンバーシップでは過去の有料記事もすべて読めます。
同じテーマに向き合っている方は、必要な形でご利用ください。
ここから先は
☕読んでいただきありがとうございます。 このnoteが心に残った方は、チップで応援してもらえるとうれしいです
