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その人を見ているつもりでいても—映画『フィラデルフィア』を初めて観た

映画『フィラデルフィア』を、初めて観た。
終わってすぐの感想は——なんだって、今の今まで見過ごしてきたんだろう。

トム・ハンクスが、この作品でオスカーを取ったことは知っていた。でも、HIVに感染した人と、それを取り巻く社会の目、そして隔たりのない愛を描いた映画だとは知らなかった。

監督のジョナサン・デミ(Jonathan Demme)は、1991年公開の『羊たちの沈黙』の監督としても知られている。私は『羊たちの沈黙』を魂を込めて観ていなかったので、詳しいことは分からない。それで、少し調べてもみた。
あの映画の犯人は、「精神的に壊れた異性愛者」として演じられていたらしい。

それでも、あの映画におけるトランスジェンダーの描き方が批判を受けたため、『フィラデルフィア』は、その償いとして作られた、という見方もあるらしい。

映画監督デミには、フアン・スアレス・ボタス(Juan Suárez Botas)という、有名なイラストレーターだった親しい友人がいたそうだ。その友人がHIVに感染して亡くなったことから、この問題を違う視点で描きたかった、という見解もある。

『フィラデルフィア』が公開された1993年は、その友人が亡くなった翌年。
そして、クイーンのフレディ・マーキュリーが、エイズで亡くなってから二年後でもある。HIVやエイズに対する知識がまだ浅く、未知のものへの恐怖と偏見が、社会に蔓延していたころなんだろうか。

この映画で、当時37歳だったトム・ハンクスは、初のオスカーを取る。
彼自身、いろいろな勉強や下調べをした結果、生まれてきた演技なのだろう。肉体的にも精神的にも、何かに取りつかれているようだ。彼の演技は、いつだって決して裏切らない。

それと並んで、もしかするとトム・ハンクスの上をいっているかもしれない、と私が思うのは、弁護士ジョー・ミラーを演じた若きデンゼル・ワシントン。

感情のジェットコースターを、見事に演じているからだ。彼は、自分の中にある偏見と恐怖を知りながら、ある日、違う決断をする。

その変化は、図書館の場面から始まる。
エイズを発症したトム・ハンクス演じるアンディが、図書館の職員から疎外されそうになる。ジョーは初め、積み上げられた本に隠れるようにして、その様子をこっそりと見守る。

そして、何かが吹き飛んだように、さっと立ち上がる。アンディに近づき、図書館の職員に一言申す。その日からジョーは、アンディのために、友として、そして一度は断った彼の弁護人として、歩き出す。
そのきっかけを作った、大事なシーンだ。

そして、どうしても忘れてはならないのが、トム・ハンクスとデンゼル・ワシントンが、一緒にマリア・カラスのオペラを聴くシーン。あの二人の表情からは、観る人によって、さまざまな「気」が伝わってくるはず。

私には、あのとき初めて、ジョーが自分の中のMortality——いずれは死ぬ存在であること——を悟り、恐怖心が湧いたように見えた。同時に、トム・ハンクス演じるアンディの中に、それを乗り越えた「永遠」を見たような気もした。私には、そういう「気」が伝わった。

同性愛者といえば、私の身近にも、同性愛者の知人が数人いる。少し遠い知り合いではあるけれど、トランスジェンダーの人もいる。私が住む町の近くには、同性のカップルが仲よく、楽しく暮らす町として、英国でも知られている場所がある。そこへ行けば、同性のカップルをよく見かけるし、特に変わった光景ではない。

その一方で、宗教上の理由や個人的な考えから、同性愛者やトランスジェンダーの人を毛嫌いする人がいることも、よく知っている。私は、それを批判するつもりもない。なぜなら、人は自分が信じるものを信じ続ける——その人の気が変わるまで。わたしだってそうのはず。

映画が描いた、社会からの疎外感という点でいうと、うちのダーリンが、この映画に強く心を打たれる理由の一つは、彼自身の経験にもある。

事故のあと、彼は一般の社会から「区別」され、「障害者」という分野に、無理やり入れられたように感じたらしい。「自分の本質は何一つ変わっていないのに、急に別の人間として見られるようになった」と。

人間は、目に見える、あからさまな違いに影響されやすい。
それは、目ん玉が二個ついている私たちにとっては、致し方のないこと。

車椅子を使っていること。
太っていること、痩せていること。
肌の色が違うこと。
外国人であること。
あるいは、ただ高齢であること。
また、外からは、すぐには分からないものもある。
HIVやがん、糖尿病、心臓疾患などの病気を抱えていること。
高級ブランドの洋服を着ていても、私生活では、とても深い苦しみを抱えているかもしれないこと。
例を出せば、きりがない。

だからこそ、そういう「識別」が「差別」に変わっているとき、私がすることは、自分の心の中にある「分離」に注目すること。

私はその人を見ているようでいて、実は、自分の中にある偏見や差別を見ているだけだから。それは、いろいろな形に変わりながら、実に巧みに私をだまし、表に出てくる。

時には、「親切心」の面をかぶってまで。

ACIM(奇跡のコース)が教える赦しとは、その偏見を無理に否定することではない。「ああ、私は今、この人を区別し、毛嫌いして見ているのだな」と、まず正直に認める

そして、その見方は真実ではないことを思い出す。
それは、分離を信じている心が作り出した、偽のお芝居なのだから。
その人の本質も、私の本質も、本当は何一つ傷ついてはいない

これを書く前に、映画『フィラデルフィア』のメイキング映像や、キャストや監督のインタビューも観た。何か気の利いたことを書きたいとも思ったが、私がこの映画から学んだ結論は、世間に映し出される「差別」は、ただ「赦す」ためだけに外側にある、ということだった。

自分の中の「分離」を癒す。ただ、それだけ。

あとは、この身体で生きる社会の中で、実際に何か役に立てることが、自然に自分を通して現れるのだと思う。それは、トム・ハンクス演じるアンディの家族が表現した無限の愛のように、

「ただ見守る」

といった形かもしれない。

それが、口で言うほど容易なことではないのは、誰もが知っている。

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