聖地カイラスと命の巡り~ネパール・中国の災禍に寄せて
このたびのネパールと中国における洪水や崩落により被災された皆様に、心よりお見舞いを申し上げます。
地球温暖化による異常気象や氷河崩落と報じられる今回の惨事ですが、日本各地でも深刻な土砂災害や豪雨が相次いでいるように、決して他人事ではありません。世界中で起きている環境の変化は、私たちが住む地球からの強烈な警鐘のように感じられます。
私たちはこの出来事を通して、何を感じ、何を胸に刻むべきなのでしょうか。自然は私たちが及ばない大いなる循環と、いまこの瞬間を生きることの尊さを伝えているのかもしれません。
悲しみや揺らぎの中で、改めて命のあり方や自然への敬意に想いを巡らせています。
神々が眠る聖地カイラス山への憧憬
今回、多くの巡礼者が目指していたカイラス山は、アジアの数々の信仰において至高の聖地として崇められてきた場所です。特にヒンドゥー教においては、破壊と再生を司る偉大な神・シヴァが深い瞑想に眠る居城として知られています。
ヨガや瞑想の世界に足を踏み入れ、自らの内側をより深く探求したいという純粋な渇望が生まれたとき、人はこのカイラスという聖地へと引き寄せられていきます。しかし、そこへ至る道は決して容易ではなく、常に自然の厳しさと隣り合わせのリスクを伴う場所でもあります。
魂の変容と第六感のアンテナ
私にとってインドへ行くということは、単なるデトックスや学びのためではありません。自分自身の魂が大きく成長する節目であり、自分を通してコミュニティへも大きな変容を届けるタイミングに“呼ばれる”という感覚に近いものです。
そのタイミングの多くは、決して自分で意図した時ではなく、今行って本当に大丈夫なのだろうか?と思わされるようなタイミングがほとんどです。けれど不思議なことに「行く」と腹を括るとすべての道筋が綺麗に開き、いま振り返っても、よくあのタイミングで行けたなと思うことばかりです。
この“行くべき瞬間”を見極める感覚は、日頃の人間関係やあらゆる決断でも同じように働きます。言葉を超えて“もう関わらない方が良い”という直感に従うことで、大きな問題やトラブルを回避できたことが何度もありました。
実は今回のカイラス巡礼ツアーは、私のもとにもお誘いが届いていました。参加する“条件”が揃わなかったこともありますが、災害を予知したわけではないものの、やはり私の第六感的なアンテナが反応することはありませんでした。
だけど、もし今回参加していたらどうなっていただろうかと思わずにはいられません。多くのご家族が安否を待ち続ける姿を目にするたび、私を送り出し待ってくれている大切な人や生徒さんたちに同じ思いをさせていたかもしれないと、胸が強く締め付けられます。
一瞬一瞬を惜しみなく生きる
今回の映像を目にして痛感させられたのは、私たちの命がいかに儚く、一瞬にして消えてしまうということです。どれほど備蓄をし備えていても、一瞬で目の前が変貌する現実の前には万全な準備すら意味を成さない瞬間があります。
だからこそ、今こうして生かされている自分が与えられるもの、できることに全力でありたい。大切な人と共にする時間や手渡せる想いは、二度と訪れないチャンスかもしれません。何に対しても悔いのない選択をし、一瞬一瞬を大切に生きたいと強く思うのです。
魂の旅路と永遠の祈り
「カイラスほどの聖地でありながら、なぜこれほど多くの命が落とされなければならなかったのか」
「本来、神は人々を守り見守ってくれる存在なのではないか」
今回の悲劇に際し、そうした切実な問いや葛藤の言葉を目にしました。
しかし、ヒンドゥー教におけるシヴァという存在は、人々に恵みや安心をもたらす存在であると同時に、私たちの想像を超える、時(運命)そのものを司る絶対的な存在(マハーカーラ)でもあります。
神とは、私たちの損得や善悪を人間の都合で裁く存在ではなく、この世界のすべての営みをただ静かに見守る大いなる観察者なのです。
私が受け取ったメッセージの中でも、今回カイラスへ向かわれた方々は、自らの魂と深く向き合う高い意識をもってあの場に身を置いていたのだと感じました。肉体の死は現世における一つの節目に過ぎず、魂がただ絶望の中に消えてしまったわけではない。そう捉えることで、わずかでも救いを見出したいという思いがあります。
失われた尊い命が穏やかな光に包まれ、安らかであることを心より祈り続けています。
