「暗殺が成功してよかった」――なぜ日本のリベラルは政敵の死を喜んでしまうのか #5
はじめに――2022年7月8日の「祝祭」
2022年7月8日午前11時31分、安倍晋三元首相が奈良市で銃撃され、同日午後5時3分に死亡しました。この瞬間、日本の言論空間では二つの全く異なる反応が同時に起きました。一つは、政治的立場を超えた哀悼と民主主義への危機感。そしてもう一つは、人文系知識人から出てきた「暗殺が成功してよかった」「思わずでかしたと叫んだ」「世直しが機能した」という言葉でした。
「暗殺を喜ぶ」という行為は、いかなる政治的文脈においても正当化できるものではありません。それは単純な道徳の問題ではなく、自由・人権・法の支配というリベラリズムの根幹を自ら否定する行為だからです。しかしここで問うべきは、個々の投稿者の人格ではなく、なぜそのような言葉がリベラルを自認する人々の口から出てくる構造が生まれたのか、という問いです。本稿ではその背景を多角的に考察します。
一、何が起きたのかを確認する
まず事実を整理します。安倍元首相の銃撃直後から、言論空間には「暗殺が成功して良かった」「世直しとして機能した」「思わずでかしたと叫んだ」などの発言が相次ぎました。
これらの投稿の担い手が全員「リベラル」だったわけではありません。しかし、投稿者のアカウントの傾向、使われた語彙、投稿が多く流れたタイムラインのコミュニティを見ると、安倍政権への強い批判を日常的に発信してきた層と重なる部分が大きかったことは否定できません。
また、著名な文化人・活動家の中にも、直接「よかった」とは言わずとも、哀悼の言葉を避けたり、「暴力は否定するが」と前置きしつつも死を悼まない姿勢を示した例が散見されました。「暗殺への喜び」は一部の過激な発言にとどまらず、より広い層における「安堵感の容認」という形でも現れていたのです。
二、「極悪人」に仕立てることの心理的効果
なぜこのような反応が生まれるのか。その最初の要因は、安倍元首相が日本のリベラル言論空間において「絶対悪」として長年描かれ続けてきたことにあります。
安倍政権の9年近くにわたる長期政権において、リベラル系メディアや言論は、森友・加計問題、「桜を見る会」、特定秘密保護法、安保法制の強行採決など、批判すべき事案を繰り返し報道してきました。これらの問題提起は民主主義的言論として正当なものを含んでいます。
しかし問題は、その批判の質的な変容です。政策への反対が、いつの間にか人格への否定へと滑落していきました。安倍氏は「ファシスト」「ヒトラー」「この国の私物化を続ける独裁者」という言葉で描かれ、その写真に落書きをして車で轢く動画が拡散され、讃美されました。政治家への批判が、人間としての存在否定へとエスカレートしていたのです。
人間の認知において、相手を「人間以下」あるいは「絶対悪」として描くことは、その人物への暴力や死を「正義の実現」として感じさせる土台を作ります。社会心理学ではこれを「道徳的離脱(moral disengagement)」と呼びます。通常であれば「人が死ぬことは悲しい」と感じる道徳的感覚が、「あいつは人間ではない」「あいつは悪魔だ」という認知によって停止してしまうのです。
10年近くかけて「安倍晋三は絶対悪」という認知フレームを形成してきたリベラル言論空間は、自分たちが育てた「道徳的離脱」の土台の上に立っていたことを、2022年7月8日に突きつけられました。
三、「正しい側」という自己確信がもたらす倫理の麻痺
第二の要因は、「自分たちは正しい側にいる」という絶対的な自己確信が生み出す倫理的麻痺です。
日本のリベラルの言論空間には、「私たちは平和・人権・民主主義の側にいる」という強固な自己定義があります。この自己定義は、誠実な思いから生まれたものでしょう。しかし、この確信が強まるほど、「悪の側」に分類された人間への倫理的配慮が失われていきます。
哲学者マイケル・サンデルはその著作で、「自分が善のために戦っていると確信する人間は、最も危険な行為者になりうる」と指摘しています。自分が善の側に立っているという確信は、本来なら禁じるべき行為を「悪への対抗」として正当化する論理を生みやすいからです。
安倍氏の死を喜んだ人々の多くは、自分が「暴力を肯定している」とは思っていなかったでしょう。「独裁者が倒れた」「ファシズムへの抵抗が成功した」という認知フレームの中では、喜びは「正義の実現」として体験されます。しかしそのフレームは、リベラリズムが最も忌むべき「暴力による政治的解決」を正当化しているという矛盾に、気づかないまま陥っているのです。
四、エコーチェンバーが増幅した「集団的熱狂」
第三の要因は、SNSのエコーチェンバー構造です。
政治的に同質な集団が閉じたコミュニティを形成するSNS空間では、特定の感情的反応が「いいね」と「リツイート」によって正の強化を受けます。安倍氏への批判的・嘲笑的な投稿ほど反響が大きいという経験を繰り返してきた人々にとって、訃報に際しての「喜び」の投稿もまた、コミュニティからの承認を得る手段として機能しました。
この構造の恐ろしさは、個人の感覚が集団の中で増幅・正規化されることです。一人で静かに画面を見ているときには「さすがにこれは言えない」と感じることも、コミュニティの熱狂の中では「みんなが言っている、これが正しいのだ」という錯覚に包まれます。
さらに問題なのは、コミュニティ内部でこうした投稿を批判する声が上がりにくいことです。「暗殺を喜ぶのはおかしい」と言えば、「安倍の擁護者」「反動」のレッテルを貼られる可能性があります。批判への恐れが自己検閲を生み、コミュニティ全体が誰もブレーキをかけられない状態になります。これはまさに、リベラルが保守側を批判する際に用いる「空気の支配」「同調圧力」そのものです。
五、「暴力による政治」を否定するはずの人々が暴力を歓迎した矛盾
この問題の最大の皮肉は、「暴力反対」「憲法9条」「平和主義」を最も強く訴えてきた人々の一部が、政敵への暴力を歓迎したという矛盾です。
日本のリベラルは長年、「暴力で政治を変えることは許されない」という主張を核心に置いてきました。安保闘争以降の平和運動、反戦運動、そして憲法9条擁護の運動は、すべて「暴力ではなく言論と民主主義で社会を変える」という理念に支えられていました。
しかし2022年7月8日、その理念は試されました。気に入らない政治家が暴力によって殺された。そのとき「暴力反対」を訴えてきた人々の一部は、「よかった」と言ったのです。
「暴力は一般論として反対だが、安倍晋三への暴力は例外だ」という論理は、「暴力反対」の普遍的な主張を自ら解体しています。普遍的な原則とは、自分が同意できない結論にも適用されることで初めて普遍性を持ちます。「気に入らない相手への暴力は例外」とした瞬間に、それはもはや原則ではなく党派的な都合です。
この矛盾を直視することなく、「暴力反対」「平和主義」を引き続き訴えることは、言葉の意味を空洞化させます。国会前でペンライトを掲げて「戦争反対」と叫ぶ人々の中に、3年前に政敵の死を「世直し」と呼んだ人がいるとすれば、その訴えはどこまで普遍的な価値として受け取られるでしょうか。
六、若者がリベラルを支持しない理由の一つとして
この問題は、日本のリベラルが若年層の支持を得られない構造的要因とも深く結びついています。
前稿で見たように、立憲民主党の支持率は18〜29歳で極めて低く、シルバー率(60歳以上の構成比)が75〜86%という異常な偏りがあります。その理由の一つとして、SNSで可視化された「政敵の死を喜ぶリベラル」の姿が、若い世代に強い嫌悪感を与えたことは見逃せません。
デジタルネイティブの若い世代は、SNSでの言動の矛盾に極めて敏感です。「人権を守れ」「暴力反対」と言いながら、特定の人物の死を「世直し」と喜ぶ人々の姿は、若者の目には「ダブルスタンダード」として映ります。そしてその感覚は、リベラル全体への不信感として定着していきます。
「政治的に正しい言葉を使うが、実際には自分たちの感情的な怒りを正当化しているだけではないか」――この疑念こそが、若者がリベラルをスルーし、具体的な経済政策を訴える国民民主党に向かった一因と考えられます。
おわりに――リベラリズムは人間の普遍的な尊厳の上に立つ
安倍晋三元首相の政治を評価するかどうかは、本稿の主題ではありません。批判されるべき点があったとすれば、それは言論と民主主義の場で、徹底的に問われるべきです。
しかしいかなる政治家も、暴力によって命を奪われてよい人間ではありません。その死を「よかった」と言うことは、リベラリズムが最も大切にすべき「すべての人間の尊厳」という原則の自己否定です。
日本のリベラルが本当に「人権」「平和」「民主主義」を訴えるなら、その言葉は政敵にも、気に入らない政治家にも、自分たちが「悪」と名指した人間にも、等しく適用されなければなりません。その普遍性を回復することなしに、リベラリズムは言葉の力を取り戻せないでしょう。2022年7月8日の「祝祭」は、その問いを突きつけた日として、静かに記憶されるべきです。
