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共通テストの国語に呆れた話

共通テストの現代国語の最初だけ問いてみた。かなり難解な文章で、抽象的な芸術論だった。さっぱりわけがわからなかったという高校生も多かったようだ。さすがに大人になると人生経験もあるので、筆者の言わんとしていることは何となく理解できるのだが、選択肢にされてしまうと非常に答えにくい。2つくらいに絞れたとしても、どちらでも合っているような気がする。

テストの設問に文章が採用された著者がよく言う話としては、自分の作文意図を指摘されその見方が逆に新鮮だったとか、違和感があるという感想だ。
この類の文章に、何か正解があると選択肢を示す事自体がバカバカしいともいえる。理解できないことに起因する明らかな間違いは選択肢としてあってよいが、引っ掛け回答なのか、正解の範疇に入るような曖昧な回答が2つくらい入っている。そこで点差をつけることが本当に正しい評価なのか。

現代国語はまだ良いとして、古文・漢文に関しては高校を卒業してから全く目にしていない人も多いだろう。点数競争に古典を利用しているともいえるが、これからの社会で本当に必要とされるのは、果たしてこのような重箱の隅をつつくような知識なのだろうか。
生きた中国語や韓国語、近隣諸国の言語を日常会話だけでも学んで、アジアの人々とコミュニケーションを取れるようにした方がよほど有意義ではないか。

またテストも昔より難しくなっているような気もする。少子化にも関わらず受験競争がエスカレートしている。
本来は五感を使って自然の中から得られるような体験や、他者とのコミュニケーションの蓄積の方がAI時代には重要なのに、こうしたカルトクイズに巻き込まれるのは気の毒である。子供は観光地や美術館、博物館に行く時間も奪われるし、また家族の側も子供の時間を拘束されることで体験や思い出自体が奪われている。

すでに多くの仕事で、文章の要約や解釈はAIがこなす時代になっている。正解を素早く当てる能力は、今後ますます不要になる。その一方で、他者と協働し、新しい価値を生み出す力や、異なる文化と対話する力は、依然として人間にしか担えない。

まず最低限理解したほうがよい教養の水準は、今の共通テストのような難解なものではなく、学問の基礎レベルを全般にきっちり理解させればよい。上位層で差がつかなくなってしまうと考えているのだろうが、大半の人にとっては、すべての教科の最低限の基礎知識を理解し、地域社会や自然の中、人々の間で、協調しながらうまく生きる力の方が大事だ。

上位1/3以上の学生には、共通テストで重箱の隅をつつくような些末な問題を出すのではなく、もっと社会で役に立つような技能を理解させ身に付けさせるべきだ。一定程度、理解力のある若者の力が十分に発揮されることで、日本は強い国になる。
そして、研究者や官僚、医師になるような優秀な学生には、東大・京大などハイレベル大学において、二次試験で難解な問題を出せば良い。

一般層には共通テストで最低限の基礎学力を測る試験、上位層には共通テストに加え社会で有用な実践技能教育、優秀層は二次試験で選抜。
そして無駄な競争や一発勝負は辞めて、高校3年生の1年間の成績や活動を評価してそれをベースに希望順に大学に全員入れてしまえばよい。大学と高校生のあいだでマッチングのようなことをやってもよい。むしろ厳格にすべきは入試ではなく、大学の卒業要件である。
このように受験制度そのものを見直すべきだと考えるがどうだろうか。

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