見出し画像

第十二話「選択」

 土砂降りの雨は、もはやれ川沿いの社を、世界そのものを押し流そうとするかのように、狂暴なまでの質量をもって激しく激しく激しく降り注いでいた。叩きつける濁流のような雨音が、本郷の耳の奥で、じりじりと鳴り止まない蛍光灯の高周波のような幻聴と混ざり合い、彼の脳髄を容赦なく掻きむしり続けている。

 本郷の目の前で、輪郭が今にも水に溶けて消え去りそうなほど薄くなった黒髪の女――静華は、そのガタガタと震える白い指先で、百年の呪縛たる『兄の詠み札』を虚空へと突き出していた。その瞳の奥には、兄の遺した重すぎる愛の誓いを受け止め、自らの存在のすべてを投げ打ってでもこの街の因果を終わらせようとする、冷徹で、あまりにも残酷な決意の光が宿っていた。

 彼女の凍りついた唇が、ゆっくりと動き始める。それは、自らを世界から完全に消滅させるための、最後の和歌の器。

「――」

 その声が、社の闇のなかに響き渡ろうとした、まさにその一瞬だった。

「ふざけるな………ッ!!!!」

 地鳴りのような咆哮とともに、泥まみれの床板を蹴って、一人の男が猛然と飛び出した。本郷だった。刑事という鎧を完全に剥ぎ取られ、警察組織という後ろ盾も失い、ただの傷だらけの、泥にまみれた一人の人間となった本郷の肉体が、本能のままに前方へと炸裂していた。

 これまでずっと、怪異の感情に振り回され、侵食され、ただ受動的に叫ばされ続けてきた本郷のなかの、静華への感覚が、かつて漂白されてなお彼の心の底に真っ黒な血を流しながら残り続けていた彼女への狂おしいほどの『執着』が、彼の肉体を、魂を、限界を超えて突き動かしていた。

 静華が、その冷徹な瞼を閉じ、三十一文字を詠み切ろうとした、その刹那。本郷の、二の腕まで真っ黒な痣に侵食され、骨を噛み砕くような凍りつきの激痛を放ち続けている右手が、迷うことなく真っ直ぐに突き出された。

 ガシィッ、と、肉と肉が激しくぶつかる、生々しい凄絶な音が社のなかに響き渡る。

 本郷の泥に汚れた分厚い手が、静華の、今にも虚空へ霧散してしまいそうなほどに細く、白い手首を、彼女が握りしめていたお札を、上から力任せに、強引に、狂暴なまでの力で掴んで、その行為を力ずくでねじ伏せて止めていた。

「な………っ!?」

 静華の冷徹な仮面が、今度こそ完全に、音を立てて木っ端微塵に砕け散った。彼女の瞳が、驚愕と、初めて見せる剥き出しの動揺に激しく揺れ動く。これまで、どんな怪異の前でも、どれだけ指先が震えようとも、決して観測者の位置から動かず、声を漏らさなかったあの静華が、本郷のあまりにも強引な、あまりにも理不尽な肉体の介入に、その息を大きく呑んだ。

「離して………! これを詠まなければ、この街の因果は………あなたの右腕の呪いは、終わらない………っ! あなたの記憶も、すべて真っ白に塗り潰されて――」

 遠い井戸の底から響くような静華の声が、初めて、必死の拒絶を帯びて本郷の胸へとぶつかる。だが、本郷は、その細い手首を掴んだ右手の力を、1ミリとして緩めようとはしなかった。

 二の腕の痣が、心臓のすぐ目の前で、理性を焼き尽くすほどの激痛となって拍動している。だが、そんな激痛など、今、目の前でこの女の輪郭が消え去ろうとしている恐怖に比べれば、ただの心地いい微熱に過ぎなかった。

 本郷は、雨水と血に濡れた顔を歪めながら、静華のその見開かれた瞳の奥を、真っ正面から、生身の魂で凝視した。

「うるせえ………っ! 因果がどうなろうと、この街の言葉がどうなろうと、そんな乾いた現実は知ったことかよ………ッ!!」

 本郷の喉から、彼の本能のすべてが、剥き出しの咆哮となって静華の顔へと叩きつけられる。かつて刑事の合理性という蓋で押し込んできた言葉が、かつて漂白され、あの怪文書として自分の肉体が出力し続けていた、彼自身の、静華という存在への絶対的な『執着』の答えが、今、ここに結実していた。

「お前が消えた後の世界なんてな………、刑事でも何でもなくなった俺にとっちゃ、1ミリの、一寸の意味も価値もねえんだよ………ッ!!!!」

 土砂降りの雨の音が、二人の間で、一瞬だけ完全に消え去ったかのような錯覚が走った。

 静華は、言葉を失ったまま、ただ本郷のその狂おしいほどの執着の眼差しを見つめ返していた。彼女の目からは、先ほどの兄の因果の涙とは違う、ひどく熱い、人間としての涙が、止めどなく溢れ落ち、本郷の泥まみれの右手にポタポタと滴り落ちていく。

 百年の孤独のなかで、ただ世界を観測し、詠み殺し、消え去るだけのはずだった彼女の運命が、この傷だらけの男の、あまりにも能動的で、あまりにも理不尽な「選択」によって、強引に、その進行を停止させられていた。

 本郷の手のなかで、『兄の詠み札』は詠まれることなく、そのドス黒い熱を帯びたまま、不気味に沈黙している。言埜市の怪異の根源も、静華の肉体と記憶が削れていくカウントダウンも、本郷の右腕を蝕む呪いも、何一つとして解決はしていない。何一つとして救われてはいない。

 だが、本郷は、彼女の手を、お札を、絶対に離さなかった。刑事という鎧を捨て、ただ一人の人間として、百年の因果に、自分の肉体ひとつで全力でブレーキをかけた、その剥き出しの選択の重みだけが、二人の間に血の滴るような質量として横たわっていた。

 掴んだ手は、二度とほどけない。

 土砂降りの長雨のなか、何一つ解決しない世界の中心で、ガチガチに絡み合った二人の熱い手の残像だけが、今もずっと、静かに、そして激しく、降り積もる雨のなかに刻み込まれていた。

(『言埜市に、呪いを詠む女がいる』 第一章・終幕)

いいなと思ったら応援しよう!