【短編小説】スーツケースに入っていたもの
人に言えないことを、菜々恵はスーツケースに入れてきた。
最初は、
手紙だった。
次は、日記や家族写真だった。
そして最後は――
菜々恵は昔から、白い小さなスーツケースを一つ持っていた。
旅行のためではない。人に言えないものをしまうための箱だった。
それはクローゼットの奥、古い着物の和箪笥のそばにある。
菜々恵は何かを隠したいとき、いつもそこにしゃがみ込んだ。
母が昔、言っていたことがある。
「つらいことはね、箱にしまっておきなさい。外に出しておくと、だんだん大きくなるから」
母はそれ以上、詳しいことは言わなかった。
けれど、菜々恵はその言葉を妙に真面目に守ってきた。
最初は小さな茶箱だった。
中学の頃、親友に裏切られた日の手紙。
高校の入試に落ちた日の、涙でにじんだ日記。
叱られた夜、腹立ちまぎれに破いた家族写真。
そういうものを、そっとしまい込んだ。
やがて茶箱では収まりきらなくなり、白いスーツケースに折りたたんで入れるようになった。
スーツケースは良かった。
蓋を閉めるだけではなく、鍵がかけられる。
カチリ、という小さな音を聞くと、不思議と胸の奥が少し軽くなる気がした。
まるで、その出来事が菜々恵から離れ、箱の中へ静かに移っていくようだった。
スーツケースは、年々少しずつ重くなった。
二十九歳になり、菜々恵は親の縁故で入った小さな商社で、七年目の春を迎えようとしていた。
菜々恵の実家は、有名な老舗の和菓子屋で、兄も菜々恵も縁故で就職した。
その頃、菜々恵は一人の男に出会った。
取引先の会社に転職してきたという男だった。
微妙な立場の菜々恵に皆が気を遣っているのに、その男はいつも菜々恵に気軽に声をかけてきた。
会議室を出たとき、背後から明るい声がした。
「お疲れさん!」
振り向くと、男が笑っていた。
九歳年上で、よく笑う人だった。
「そんな、かたい顔せんでもええやん。笑ってたほうが可愛いやん」
菜々恵は美人ではない。
それは自分でもよく知っている。
しかし、その軽い言い方が、なぜか少しも嫌ではなかった。
静かな菜々恵とは逆に、彼は何でも笑いに変えた。
仕事の愚痴も、些細な失敗も、彼の口にかかると少しだけ深刻さを失う。
彼と会うたび、胸の奥に沈んでいた重たいものが、ゆっくり消えていくように思えた。
彼には離婚歴があると聞いていたが、菜々恵は迷わなかった。
だが、両親に初めて会わせたとき、父は良い顔をしなかった。
「年のわりに話が軽いな。うちは財産もあるから心配だ。何より菜々恵を本当に好きなのか、はっきりしない」
父は経営者だけあって、一度で彼の本性を見抜いた。
翌週、小学校時代からの親友の紀佳に彼を紹介した。
結婚に難色を示す両親に、逆に大丈夫だと言ってもらえるかもしれない。
そんな期待も少しあった。
「へぇ。紀佳ちゃんもお嬢さんなん?」
彼は紀佳に会うなり、上から下までじろじろ見たあと、「よろしく」と親しげに手を差し出した。
紀佳はおずおずと応じたが、その表情は明らかにこわばっていた。
彼は紀佳の前で遠慮なくガツガツと料理を平らげ、会計の伝票を当たり前のように菜々恵の前へ滑らせた。
彼がトイレで席を立ったあと、紀佳は声を潜めて言った。
「菜々恵ちゃん、本当にあの人と結婚するの?」
曖昧にうなずきながら、菜々恵は自分でも心の不安をぬぐいきれないのを感じていた。
その夜、久しぶりにスーツケースを開いた。
中には折り重なる紙片がある。
その上に一枚、新しい紙を置いた。
『結婚反対』
そう書いた紙を入れ、蓋を閉める。
鍵をかける。
そのとき――
カタン
と音がした気がした。
箱の奥で、何かが静かに動いたような音だった。
その後、彼に押されるようにして、結婚へと進んでいった。
正式に兄が家業を継ぐことが決まり、両親も菜々恵は嫁に行くということで、渋々結婚を承諾した。
結婚式の日。
菜々恵は控室の外で声を聞いた。
「なぁ、ほんまに結婚するん?」
女の声だった。
ドアの隙間から、廊下が少し見える。
彼と、見知らぬ女が立っていた。
「するで」
彼は軽く答えた。
「好きでもないくせに! あんな地味な女」
女の声は震えていた。
少しの沈黙のあと、彼は笑った。
「当たり前や! 財産目当てで結婚するだけや」
菜々恵の耳の奥で、遠い音が鳴った。
廊下の向こうで、女が泣いている声がする。
彼は「泣くなや」と言いながら、笑っていた。
白いドレスの裾を握りしめたまま、菜々恵は動けなかった。
結婚式は、散々だった。
菜々恵の両親に寄せられたおびただしい数の祝電が早口で読み上げられた。
知らない人々が新郎新婦の席に並び、祝福の言葉を述べるたびに、菜々恵は立ち上がったまま頭を下げた。
そのそばで、彼の親族の席からは、下品な笑い声が絶えなかった。
――ドンッ
大きな音がして、菜々恵が顔を上げる。
酔った親族の小太りの男が、菜々恵の席の前でふらつきながら手をついた。
七三分けは乱れ、眼鏡も傾いていた。
「今流行りの逆玉ってやつですか。まぁ、これからよろしくお願いしますよ」
彼とよく似た、品定めをするような目を見たとき、菜々恵はぞっとした。
その夜。
家に帰ると、菜々恵はスーツケースを開いた。
一枚の紙を書く。
『財産目当て』
文字はどこか、自分のものではないように見えた。
紙を入れ、蓋を閉める。
鍵をかける。
そのときまた――
カタン
と音がした。
まるで箱の中で、何かが居場所を変えたような音だった。
結婚生活は、穏やかなものではなかった。
彼は取引先の会社を辞め、一年も経たないうちに起業すると言い出した。
一緒に暮らすうちに、彼も変わるのではないかと菜々恵は信じていた。
しかし、どこまでも二人の空気は、噛み合わないままだった。
彼は菜々恵の友人関係を把握したがり、どのランチ会にもついてきた。
そして遠慮なく皿を重ねた。
ガツガツ平らげる夫の姿に、友人たちは顔をしかめた。
友人たちは徐々に菜々恵と距離を取るようになり、菜々恵は笑うしかなかった。
ある日、彼の携帯に知らない女の名前が表示された。
問い詰めると、彼は面倒そうに言った。
「うるさいなぁ。浮気くらいするやろ。向こうは遊びや」
そう言って取り合わず、寝室のドアをきつく閉めた。
その夜。
菜々恵は久々にスーツケースを開いた。
『浮気』
『暴言』
『恥』
紙に書いて入れ、蓋を閉める。
そして鍵をかける。
その頃から、奇妙なことが起き始めた。
思い出せないことが増えた。
彼に何を言われたのか。
思い出そうとすると、記憶は霧のように散っていく。
ある日、スーツケースを開くと、見覚えのないものが入っていた。
赤い和菓子の包み紙――実家の店のものだった。
しかし、それをいつ入れたのか、どうしてそこにあるのか、菜々恵には思い出せなかった。
翌週。
菜々恵は、スーツケースの中身をすべて裁断し、業者に頼んでスーツケースごと処分した。
もう必要ないと思いたかった。
気持ちを切り替えて通勤の支度をし、駅のエスカレーターに乗る。
自分の前に、一人の女性が立っていた。
その女性は、前に白いスーツケースを乗せていた。
同じ色。
同じ傷。
同じタグ。
菜々恵の胸がひやりとした。
女性は振り向かず、そのまま上へ運ばれていく。
――捨てたものがあるわけがない。
同じスーツケースなど、どこにでもある。
そう思いながらも、菜々恵はタグだけは確かめたくなった。
覗き込んだ白い札に、見慣れた綴りがあった。
『NANAE』
切って処分したはずの、自分のタグだった。
次の瞬間、恐怖のあまり菜々恵はバランスを崩した。
「きゃあああ」
エスカレーターを数段落ちた。
そのとき、キン、と乾いた音を立てて、何かが菜々恵のそばに転がった。
「人が落ちたぞ!」
騒ぎを見て集まってきた人々の靴が視界に入る。
仰向けに倒れた菜々恵の目の前に、スーツケースの小さな鍵が落ちていた。
震える手でそっと握る。
エスカレーターは、何事もなかったように静かに動いている。
――あの女性が、ただ同じ名前だったという可能性もなくはない。
そう思おうとした。
駅員に怪我の有無を確かめられ、菜々恵は貧血だと答えた。
家族に連絡を取るよう促され、スマホを開く。
だが、画面にはひびが入り、登録先の番号はうまく呼び出せなかった。
覚えている限りの番号に、順番に電話をかける。
彼は出なかった。
母にかけると、受話器の向こうで不審そうな声がした。
「菜々恵さん? どこにおかけになっているのかしら?」
そのまま通話は切れた。
胸の奥が、冷たい水を流し込まれたように縮んだ。
菜々恵は紀佳にもかけた。
「……菜々恵ちゃん? 私のお友達って、いつのお友達かしら?」
聞き返す紀佳の声は穏やかなのに、そこには何の記憶もなかった。
菜々恵は立ち上がり、呆然と歩き出した。
改札を抜けた先、青信号に変わった横断歩道の向こう側に、白いスーツケースが置かれている。
朝の光を受けて、白い表面だけが妙に明るく見えた。
菜々恵はポケットから、先ほど拾った小さな鍵を取り出した。
近づくたび、胸の奥で何かが沈んでいく。
けれど、それが恐怖なのか、諦めなのか、それとももっと古い感情なのか、もう自分でも分からなかった。
鍵穴に差し込むと、カチリ、と音がした。
昔、クローゼットの奥で何度も聞いた、あの小さな音だった。
そのスーツケースの中に、誰の人生が入っているのかは、
菜々恵にもまだ分からなかった。
◇◇◇—◇◇◇—◇◇◇
(終)
追記:「スーツケースに入っていたもの」を注目記事に選出していただきました。多くの方にお読みいただき、この場を借りてお礼申し上げます。
