【和風幻想ホラー】薄明ノ鈴舞
浅草の花街は、夏の夜ごと妖しげな熱気に包まれていた。
赤く染まった提灯の灯が石畳に揺れ、湿り気を帯びた夜気が肌にまとわりつく。
香の煙と甘い菓子の匂いが重なり合い、男たちは首筋を撫でらるような感覚になる。
遠くからは三味線の音が細く流れ、さらに耳を澄ますと、どこからともなく横笛の澄んだ旋律が紛れ込んでいる。
高く、低く、漂う笛の音は、狐火のように路地の闇を縫い、人の足を知らぬ間に奥へ奥へと誘っていた。
その突き当たりに、ひときわ人だかりができている場所がある。
緋色の幕で覆われた小屋――両脇には煤けた木札が打ちつけられ、墨文字でただ一つの演目が記されていた。
『薄明ノ鈴舞』
戸口に立つ年配の呼び込みが、客の背を押すように声を張り上げる。
「さぁさ、皆さん!今宵も滅多に見られぬ舞でございます。お代は安く、ただし、何が起こるかはわかりません!」
半ば冗談のように響いたその言葉に笑いが起き、群衆は次々と緋幕の奥へ吸い込まれていった。
湿った夏の空気に笛の音が溶け、耳の奥をくすぐる。
客たちは酔うような顔で腰を下ろし、拍子木の音に息をひそめた。
――カカン
――ヒュルリ
横笛がすっと途切れると、暗がりの奥からかすかな鈴の音が忍び寄る。
やがて幕が左右に開き、灯りが舞台を照らした。
金の簪を差した舞妓が一人、静かに中央へ歩み出る。
白粉を厚く塗った肌は青白く、真紅の唇が火のように浮かび上がる。
緋色の裾がするりとすべり、鈴がわずかに拍子を外して鳴った。
そのとき。
前列に座る男が、ふと眉をひそめる。
舞妓が一歩踏み出した瞬間、白い足袋の隙間から、青黒い痣がちらりとのぞいた。
袖口からのぞく手の甲は死人のように色がなく、冷たく硬直しているように見えたのだ。
舞が進むほど、観客は彼女から目を離せなくなった。
焦点の合わぬ瞳は、この場を見ておらず、はるか遠い闇の奥を凝視している。
ときおり笑みを浮かべるが、その笑みは生気を帯びた艶やかさではなく、まるで人形に仕込まれた仕草のようにぎこちない。
鈴の音が次第に早まり、拍子木が鋭く打ち鳴らされる。
緋色の裾が翻り、金の簪が灯りを弾いてきらめいた。
白粉と香の甘い匂いが濃く立ちこめ、息苦しさすら覚えるほどであった。
そして最後の一拍――舞妓はぴたりと動きを止め、ぐらりと首を傾ける。
唇が微かに開いた瞬間、幕が閉じ、再び横笛が余韻のように短く響いた。
――カカン
拍子木が鳴る。
――ヒュルリ
場内には拍手も歓声もなく、観客はざわめき、ため息をもらして席を立つ者もいた。
舞妓は幕の奥に消え、それきり姿を見せない。
やがて次に現れたのは別の舞妓――だがその名は、先月花街から行方不明になった舞妓の「きよ瀬」と同じであった。
この小屋に何度も足を運ぶ者ほど、ある奇妙な共通点に気づく。
舞台に立つ娘の名は、皆、近ごろ行方不明になった人間と一致しているのだ。
それでも、人々は恐怖より好奇心に負け、夜ごと小屋は満員となった。
ただの勘違い――そう思い、二度でも、三度でも小屋に足を運ぶ者もいた。
しかし、舞台袖の奥で何が行われているのかを探ろうとした者は、二度と戻らなかった。
ある夜、呉服屋の若旦那が米屋の久兵衛に連れられ、小屋を訪れた。
つまらない余興に苦笑しながら酒を煽っていた若旦那は、舞台に現れた舞妓の顔を見た瞬間、息をのんだ。
白粉に塗られたその顔――数年前に病で里に帰ったはずの愛妾、お千代とよく似ていた。
若旦那は思わず笑う。
「似ているだけだ……」
もう一度目を凝らして見る。
――違う。
耳の後ろの痣。
気に入っていた帯の結び方。
最後に、鈴が鳴る。
舞妓はぎこちなく微笑みかけた。
「お千代、お……おまえ……」
立ち上がろうとした刹那、舞妓の袖の影が床を這い、若旦那の足元に絡みつく。
「気づいたな」
若旦那は叫んで、隣にいた久兵衛へ手を伸ばした。
久兵衛の顔は白粉に塗り固められ、瞳は虚ろに光り、やがて舞台に並ぶ一人の“舞妓”と化していた。
奇怪な動きをしながら、久兵衛は鈴を持って笑っていた。
「次は、おまえの番だ」
若旦那は振り返り、客席を見る。
全員が舞妓だった。
「やめろ!何かの間違いだ!」
影が次第に身体全体を覆う。
「離せ、離せぇっ!」
絶叫がこだまする。
だが逃げられなかった。
観客ひとりひとりの影が舞妓の影と重なり、動きを真似始めた。
呻きも嗤いも、すべてが舞の拍子へと変わっていく。
座敷全体がひとつの大きな舞台と化し、現世の音が完全に消え失せた。
その混乱のただ中、ひときわ鋭い横笛の音が響いた。
ヒュルリ、と高く細い旋律が小屋全体を貫いた瞬間、灯が一斉に消える。
闇の隅に、小柄な少年の影が立っていた。
彼の笛だけが最後まで音を奏で、やがてそれも途切れた。
翌朝、見世物小屋を訪れた者は口々に語った。
――舞台も、客席も、跡形もなく消えていた。
残されていたのは骨のような白い簪が一本、地面に落ちていただけだったと。
しかし、やがて遠い笛の音と共に見世物小屋の記憶も薄れていった。
人々は恐怖を忘れるのも早かった。
別の花街には、また小屋が立ち、灯がともる。
線香の香りが急に強まり、耳鳴りのような鈴の音が夜気を震わせる。
どこからともなく、鈴が鳴る。
「今宵の演目――」
誰かの声がする。
木札には、新しい文字が書かれていた。
『薄明ノ鈴舞』
その出演者の名は――
あの日、行方知れずになった若旦那の名だった。
今宵も桔梗が一本の蝋燭を吹き消し、ひとつの物語が静かに終わった。
◇◇◇—◇◇◇—◇◇◇
(終)
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