【和風幻想ホラー】石畳の夜
花街の夜は、雨が降り出しそうなほど湿り気を帯びると、物語と現実の境が曖昧になる。
さきほど座敷で語った怪談の余韻が、まだ耳の奥で煙のように揺れていた。
夜空に揺れる提灯の赤が石畳に滲み、喧噪が遠のくたび、語りで呼び起こした“何か”が、こちらへ近づいてくる気さえした。
怪談師を名乗る双子――桔梗と菫。
今宵の座敷も、芸妓衆も客も桔梗の語りを息を呑んで聴き入った。
しかし、語りを終えて帰る道こそ、二人にとって最も気の抜けぬ時間だった。
桔梗は提灯に火を灯すと、妹の手を引き、雨気をまとった夜道を急ごうとした。
菫の細い指に残る“座敷の緊張”をそっと確かめると、幼い頃と同じ、怯えたときの温度が伝わってきた。
妹の菫は幼い頃に視力を失い、代わりに“音”を深く聞く力を持った。
三味線の撥を握る癖のまま、桔梗の指をしっかりと掴む。
「……姉さま」
「どうしたの、菫」
「さっきの座敷にね……一人だけ、聴いたことがない音があったの。座敷には、いないはずの女の子の声」
桔梗は一瞬だけ足を止めた。
菫の“いないはずの音”が告げるものは、たいてい厄介ごとの予兆だった。
「気にしないで。雨が降らないうちに、帰ろう」
そう言って歩き出した、その時だった。
石畳のはるか先で、長い影が二つ揺れた。
提灯の灯が風に震え、その向こうから、黒い影はぬらりとにじり寄って来た。
「こんばんは……お嬢ちゃん方」
「双子の怪談師ってのはあんたらか」
無精ひげに酒瓶をぶら下げた男が近づく。
隣には着流しの男。
獣のような光を宿す目が、値踏みするように二人を舐めた。
桔梗の指先が、菫の手を強く握る。
「若の言うとおりだ。噂どおりの別嬪だなぁ。怪談なんざ語らずとも、いくらでも稼げるだろうに」
無精ひげの男が笑う。
着流しの男は菫を見やり、嬉しそうに唇を歪めた。
「痣があろうと、目が見えなかろうと……これだけの器量なら、物好きには高く売れるだろう」
地面を擦る雪駄の音がザリリ、と響いたと同時に、男は近づき菫の頬に手を伸ばそうとした。
だが、その手は鋭く途中で弾かれた。
桔梗の白い指が、空を切り、鋭く男の手首を払った。
乾いた音が、湿った夜気に響き渡る。
「へぇ、気が強いじゃないか。ますます気に入った」
「二人とも……大人しくついてこい!」
男たちが迫る。
菫は三味線の胴にそっと触れた。
それは恐怖ではなく、“音”で異変を探るときの仕草だった。
桔梗は静かに息を吸った。
「……お兄さん方。面白いお話をご存じですか?」
無精ひげが鼻で笑う。
「怪談話なんぞ、間に合ってるわ。時間稼ぎなら諦めろ」
二人は顔を見合わせて笑った。
「いえ、これは花街の奥の噂話です」
桔梗の声は、遠い水底から響いてくるように冷たかった。
「この港で、深夜、人影もないのに船がひっそり着くそうです。その船から、ある旅館に小さな女の子たちが運び込まれる。身なりはきちんとしていて、売られてきた様子もない。でも、その子たちは、二度と両親の元には戻らないのだとか……」
着流しの喉が、ごくり、と鳴る。
「……貴様、何が言いたい」
「では、その旅館の主がどうなったか……ご存じですか? 今夜のお座敷では、その主の最期を語ったのですよ」
桔梗の声は風のような渇きを帯びていた。
無精ひげの手から酒瓶が落ち、砕け散った。
震える手が短刀を抜き放つ。
桔梗は動じず、提灯の蝋燭を取り出し、わずかに微笑んだ。
「その主と手下は、影から火が上がり、男は火だるまになって消えたのです」
「馬鹿馬鹿しい。そんなもの……作り話だ」
「でしょうね。でも耳にしましたよ。主を失った盗賊の残党が、金に困って旅館の主を頼り、女の子をさらっている……とね」
男たちの顔色が変わる。
「波止場の旅館は、物を運ぶにも、人を運ぶにも便利だとか」
「……目の見えないほうから連れていけ!早くしろ」
着流しの男が促し、無精ひげが菫の腕を取ろうと手を伸ばした瞬間だった。
「残念ながら、この話の真意も……お二人には伝わらないようですね」
桔梗は提灯の蝋燭を手から放し、男たちの“影”へ静かに落とした。
瞬く間に影をなぞるように、赤い火が灯る。
湿った石畳の上で、影だけが黒煙を上げて燃え上がる。
男の身体は燃えていない。
だが影が引かれるように炎に喰われると、影からその身を引きずられる。
「う、うわあああっ」
「や、やめろ……助けてくれ……!」
断末魔が夜の路地に響く。
影が焼けるはずなのに、煙が上がり、焼け焦げた衣の残骸だけが残る。
“影”が悲鳴を上げていた。
菫が耳を塞いだ。
「菫、怪我はない?」
「大丈夫」
菫は悲しそうに俯いた。
「姉さま……影が焼ける音って……泣きながら笑う人の声に、少し似てるの」
「聞こえる?」
「うん。影の音と、人の音……混じって、消えていく音」
桔梗は菫の肩を抱いた。
炎が収まると、影の形だけが黒く焼け残る。
夜風に提灯の赤が揺れた。
「雨が降ってきたよ。帰ろう。もう大丈夫だから」
桔梗は蝋燭の無い提灯を持ち直し、菫と歩き出した。
炎の匂いが、まだ離れない。
その匂いは、桔梗の胸の奥の“古い傷”をいつも静かに撫でていく。
桔梗は、燃やした影の分だけ、自分の心も少しずつ削れていくことを知っていた。
菫の小さな手の温もりだけが、桔梗を“人間のまま”つなぎとめていた。
桔梗は知っていた。
灯を落とせば、影が燃える。
灯を吹き消せば、命が尽きる。
それは火の理でも、人の業でもない。
ただ、呪いのようなものだ。
どうして、自分だけが“影火”を扱えるのか、ずっと疑問だった。
なぜ菫だけが“影の音”を聞けるのか。
答えは、幼い頃のあの夜にある。
菫が目を失った夜、桔梗は炎の中で必死に妹を抱き寄せた。
そのとき――己の影が、火の揺らぎの奥で“笑った”のを見たのだ。
あの瞬間から、桔梗はいつしか、人の命に灯る“蝋燭”の長さを見分けるようになり、影に火を宿すことも出来るようになっていた。
そして、気づくと命の蝋燭を吹き消す力すら備わっていた。
以来、菫の耳は“声なきもの”を聞き、桔梗は影に火を灯した。
――これは救いか。
呪いか。
それとも私たち、双子に与えられた宿命なのだろうか。
それは桔梗自身にも、まだ分からない。
波止場に並ぶ古い舟は、どれも灯りを落とし、月もない闇に溶けている。
遠くで酒に酔った誰かの笑い声が響き、潮風が軋むように桟橋を撫でた。
海面には、花街から続く提灯の赤が細く揺れ、波に呑まれて途切れる。
さらわれた子たちの嘆きのように、風が鳴った。
人影の消えた後の闇は、不自然なほど深い。
まるで、誰かが沈黙を守っている場所のように。
「姉さま」
「なに?」
「さっき燃えた影……最後には、泣いていたの」
菫は悲しげに笑う。
「みんなね、影が燃える時は泣いてるのよ」
桔梗はそっと菫の手を握り返した。
夜の港は静まり、雨が落ちる匂いが漂う。
わずかな灯が、双子の影を細く結んだ。
桔梗は心の底で感じていた。
これは怪談話などではなく、私たち自身の物語なのだと。
語れば語るほど火は強くなる。
火が強くなるほど影は深くなる。
そして影が深くなるほど、二人は離れられなくなる。
百物語は続き、影火を落とさなくてはならない輩は、向こうから近づいてくる。
今夜もまた、炎の残り香がゆっくりと胸に沈んでいく。
──灯を落とせば影が燃える。
その理がいつか私を焼くとしても、妹だけは闇に置いてはゆけない。
桔梗はそう心に誓った。
◇◇◇—◇◇◇—◇◇◇
(終)
