水たまりの向こうの知らない国 #シロクマ文芸部
――水たまりの向こうに何が見える?
海が見えるよ。
――海の向こうに何が見える?
知らない国が見える。
――その国の向こうに何が見える?
アスファルトの熱が、靴底を通じて足の裏をじりじりと焼いていた。
国道沿いのガソリンスタンドは、ひどく乾いていた。
錆びついた計量器と、ひび割れたコンクリート。陽炎の向こうで、大型トラックが重い排気音を響かせて通り過ぎていく。
ターコイズブルーのセリカが、滑り込むように止まった。
助手席から降りてきた彼女は、黄色のボーダー柄のTシャツを着ていた。大きなサングラスを直すこともせず、自販機の脇にある小さな水たまりを見つめていた。
さっきの夕立が残した泥水。給油ノズルから溢れたガソリンが、その表面に不規則な虹色の油膜を広げている。
彼女はしゃがみ込むわけでもなく、ただじっと、その濁った水面を見下ろしていた。サングラスのレンズに、太陽の光が反射している。
あの日も、雨上がりだった。
泥水を覗き込みながら、彼女は「海が見える」と言った。
俺はその先に知らない国を作り、二人の視線はどこまでも遠くへ届いた。
だが、今の彼女のトランクには、小さな鞄がひとつあるだけだった。それだけで、もう戻らないのだとわかってしまった。
俺はレギュラーのノズルを車体に差し込み、レバーを引いた。カチカチとガソリンが流れ込む音だけが続いた。
やがて、カチリと自動停止する乾いた音が響く。
ノズルを引き抜き、キャップを締める。
運転席の男は、ハンドルに手を置いたまま、こちらを一瞥もしなかった。
金属質な音が、蝉時雨に紛れた。
彼女は水たまりからゆっくりと視線を上げ、俺を見た。
サングラスの奥の視線は読み取れない。彼女の唇がわずかに動いた。あの問いかけの続きを、もう一度だけ口にしようとするかのように。
だが結局、何も言葉にはならず彼女は助手席に戻った。
ドアが閉まる鋭い音が、夏の午後に境界線を引く。
低い車体が国道へ滑り出し、陽炎の向こうへ消えていくのを、俺は見送らなかった。
ただ、足元の水たまりを見た。
西日に焼かれ、みるみるうちに小さくなっていく泥水。
ガソリンの虹はすでに消え、もう掌ほどしか残っていない水面の向こうには、どこまでも高い夏の青空だけが取り残されていた。
(了)
こちらの企画に参加させていただきます。
夏の午後の、ひとつの通過点を書きました。
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