カーテンから差し込むカリフォルニアの日差しは、すでに強くなっていた。
課題に追われていた僕は結局、週末を口実に、二度寝を決め込んでいた。
もう少し、という誘惑に抗いながら、からだを起こし、ゆっくりと部屋を出た。
リビングに行くと、揺れる後ろ姿があった。
ノアだ。
背が高く、サーフィンで鍛えた体つき。ロン毛を揺らし、鼻歌を歌いながらLavazzaのコーヒーを淹れている。
隣には、恋人のノール。鼻筋にピアスが一つ。
彼女は、朝からノアの背中に腕をまわして、コーヒーを淹れる彼を眺めている。
こちらに気づくと、
「おはよう、コーヒー淹れたよ」とノア。
彼らはスイスから来た留学生だった。
ノアは空手家アンディ・フグと同郷なのが自慢で、日本の話をすると、いつも目を輝かせた。
「おはよう」ノールも続く。
ノアは思ったことを口にするが、隣に彼女がいると、その言葉は柔らかくなった。
僕らはビーチまで徒歩五分という長屋に、渡米二年目の夏から一緒に住むことになった。サーフィンが趣味の彼は、どうしても海の近くがよかったらしい。
家賃の高さから、一緒に住まないかと声を掛けてくれ、僕は二つ返事で快諾した。ホストファミリーが夕食に出してくれるピザとコーラが最初は新鮮だったが、そろそろ白いご飯と味噌汁が恋しくなっていたからだ。
1LDKの部屋で、なぜか僕が寝室、彼らはリビングだった。
八畳ほどのリビングに、ノアはコンクリートブロックを積み上げてベッドの土台を作り、カーテンを吊るして“部屋っぽさ”を演出して満足そうだった。
奇妙な共同生活だったが、不思議と上手くいった。結局、ノアが卒業してスイスへ帰るまで一緒に暮らした。
そんな三人の生活の中心は、ダイニングに置いてある、前の住人が置いていった使い込まれた丸い木のテーブルとイスだった。
コーヒーを飲み、窓から見える近所の人たちを眺めながら、くだらない話をした。そして、よく一緒に食事をした。
ボロネーゼ、リゾット、ラクレット。
ノアとノールの作るボロネーゼは僕のお気に入りだった。ノールが細かく刻んだ人参とセロリをじっくり炒める。そこへノアが食感を残すように牛ひき肉を加え、赤ワインで煮込む。そして仕上げにサワークリームと牛乳を少し。少し太めのロングパスタに絡め、ノールが上から粉チーズをたっぷりかけてくれる。
ノアは冷やしたランブルスコを開け、
「これがスイス流さ」
と得意げに言った。
これはイタリア料理なのでは、ということは口にせず、笑顔でグラスを傾ける。
僕も負けじと、日本食をふるまう。
焼うどん、焼きそば、出汁のない味噌汁。
茶色まつりだ。
彼らは毎回、「これがジャパニーズフードか」と喜んでくれる。
僕は「そうだよ」と適当な相づちを打つ。
味噌汁はよく多めに作った。お湯を沸かし、玉ねぎと豆腐を入れ、最後に味噌を溶く。高校の家庭科で覚えた程度の、出汁も引かない味噌汁だった。
それでも二人が美味しそうに食べてくれるのがうれしかった。
ある週末の朝、起きてキッチンに行くと、いつものコーヒーの香りはせず、 何かをせっせと作っているノアとノールの後ろ姿があった。
僕に気付くと「ちょっと座ってて、Miso soupを作ってみたんだ」とノアが椅子に視線を向けた。
差し出されたマグカップを覗くと、緑とオレンジが揺れていて、鮮やかな色合いが何ともカリフォルニアらしかった。スプーンですくうと、そこにはブロッコリーと人参が浮かんでいた。口に運ぶと鶏肉の出汁とコショウがぴりりときいていた。
気付くと、僕はスプーンを持ったまま笑っていた。
「これはジャパニーズフードを超えているよ」と伝えると、
ノアはいつものように「スイス流さ」と笑いながら答えた。
それ以来、鶏肉とブロッコリーと人参のMiso soupが僕らの定番となった。
そんなある日、いつものようにテーブルでくつろいでいると、ノアがおもむろに一枚の白紙のルーズリーフとペンを差し出してきた。そして自分の名前を漢字で書いてほしいと頼んできた。ノアは自分のラストネームをその紙に書き出した。
「Stone Man」
ノアは自分の名前を指しながら意味を教えてくれた。
僕は彼のルーズリーフを受け取ると、頭に浮かんだ二文字をただ並べた。
『石男』
ふと、リビングでコンクリートブロックを積み上げてベッドを作っていたノアの姿が浮かんだ。
なるほどと、妙にしっくりきてしまった。
それでも、散歩でたまに見かける漢字タトゥーのどれよりも強烈な字面に、吹き出しそうになるのをこらえて俯いた。
ノアはその紙を受け取ると、しばらくその文字を眺めていた。
そしてその形をなぞりながら呟いた。
「This is beautiful」
僕は思わず顔を上げた。
ノールは小さく頷き、ノアの肩に顔をのせた。
二人はその形をしばらく眺めていた。
もう笑えなかった。
石男は、眩しかった。
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