アメリカの会社で、英語力より先に評価されたもの
アメリカの電話のベルは、せわしない音がする。
鳴るたびに、僕の肩は跳ねた。
体を伸ばすふりをして、まわりを見渡す。
誰か出ろ、出ろ、出ろ。
三回目までは、命令形。
出てくれ、たのむ。
四回目は、お祈り形。
一つ息を吐く。
五回目は、あきらめて受話器を握る。
当時の僕に残された猶予は、あと九十日。
この国に居られるかどうかが、そこで決まる。
外国人は雇えない
僕が最初に勤めたのは、二十人ほどのアメリカの測量事務所だった。
きっかけはバンド仲間だった。
当時、卒業を控えた僕の就職活動は、難航していた。
僕の専攻は、航空宇宙工学。
ロケットや飛行機の設計や作り方を学ぶ学問だ。
父は、ダメダメな姿しか見たことがないが、もともと飛行機の整備士だった。夜学で大学に通い、就職した小さな整備会社がたまたま大手に買収され、フライトエンジニアになって空を飛んでいた。
今はもう、コンピューターに取って代わられた職種だ。
あの父が空なら、僕は宇宙だ。いやNASAだ。
そんな単純な発想から選んだ専攻だった。本当のことを言うと、パイロットや航空管制官を目指そうとした時期もあった。目が悪くて、早々に諦めた。
いや、そもそも目じゃなくて、脳のシワの方かもしれないけれど。
乗れないなら、作ればいい。
安直だ。
越えようとしたその空を、9.11が変えた。
飛行機は、あの日から「乗り物」という定義を書き換えた。
そして僕が学んできたロケットは、ミサイルと同じ軌道計算を使う。
それはつまり、僕の知識が、国の守るべき技術の側に入ったということだった。壁は、外国人の僕の前にだけ、いきなりそびえ立った。
アメリカの大学には、卒論の代わりにこんなプロジェクトがある。四年生がチームを組み、地元の航空関係の企業から与えられた課題に取り組み、最後はその企業でプレゼンをする。日本と違い、これが就活だ。
大学を卒業すれば、専攻した分野に限り、学生ビザの延長で働くこともできる。9.11からすでに四年。だが、企業担当者と仲良くなっても、外国人と伝えると、そこで扉は閉まった。
五社、問い合わせた。五社とも、同じ答えだった。
レジュメは受け取れない。
外国人は雇えない。
英語力不足でも、成績不足でもない。パスポートの色で、扉が閉まる。
努力の外側で決まってしまうことが、この世界にはあることを知った。
就職が決まったアメリカ人の友人でさえ、楽ではなかった。バックグラウンドチェックという審査があり、本人の犯罪歴はもちろん、家族の犯罪歴まで徹底的に調べられる。すべて終わるまで半年、長い人だと一年。それまでは研究資料に一切触れられず、机の下で手を組み、ただ無事を祈るしかないという。
アメリカ人で、それだ。
僕の心は、そこで折れかけた。
もう、諦めるか。
図書館をセカンドハウスと呼べるようになった英語力も、この状況では、ただの前提条件だった。英語が話せる人間なんて、この国には掃いて捨てるほどいる。当たり前だ。ここはアメリカなのだから。
とは言っても、日本企業も当時は冷たかった。クォーター制の卒業は六月。
四月入社に間に合わない僕は煙たがられた。国際電話の向こうの人事担当者の声は、より遠く感じた。
つくづく自分のタイミングの悪さに、苦笑いする。
僕の周りにいた日本人の友人は、早々に見切りをつけて帰国していた。
残ったのは、僕ともう一人ぐらい。
ただ単に意地になっていただけかもしれないが、あきらめたくなかった。
あごひげサンタとカーネル
卒業して二ヶ月が経っていた。仕送りもそろそろ底をつきそうだ。
そんなことを考えながら、僕は練習スタジオに向かった。
二年ほど前から、僕はなぜかバンドをやっている。たまに友人が出演するライブに顔を出し、中古で買った一眼レフのカメラで撮っていた。
「ドラム叩ける人がいないんだよね」
断れないまま、二年が経っていた。南カリフォルニアはパンク・ロックの発祥の地だ。
「ズッ・チャ・ズズッ・チャ。これをひたすら繰り返すだけだ、それがパンクだ」と教えられた。
そんなわけない、とは言えなかった。
言えないまま、いつの間にかお古のドラムセットを譲ってもらい、
シンバルの数が増えていた。
スタジオは節約のため、別のバンドとシェアしていた。一緒にライブをしたり、呑みに行ったり、バーベキューをしたり。その日はたまたま、練習が入れ替わるタイミングで顔を合わせた。
世間話程度に、アメリカに残るのは大変そうだよ、とこぼした。
すると、返ってきたのは同情ではなかった。
「CADはできるか? うちの会社で探してるぞ」
聞けば、彼はその会社のマネージャーらしい。
待て待て待て。
顔を覆い尽くす長いあごひげ。酔っぱらうと目が据わって、周りに奢りまくる性格。ふくよかなお腹。
僕の知っている彼は、マネージャーというより、週末にタダ酒を振る舞うサンタクロースだった。
嬉しさより、怪しさが先に来た。
どんな会社だ?
測量事務所だという。大学でCADの授業は取っていた。コンピューターを使って図面を引く。成績も悪くなかった。でも、それを「武器」だと思ったことは一度もなかった。エンジニアの世界では、CADは読み書きと同じ、できて当たり前のものに見えていたからだ。
音楽の縁が、仕事の縁になった。人生は、どこで何が繋がるか分からない。ズッ・チャ・ズズッ・チャを二年繰り返した先に、
あごひげサンタがHo・Ho・Hoとプレゼントを持ってきてくれた。
帰るとすぐに、酔いも覚める前に、レジュメをサンタに送った。
パンク・ロックな人生だ。多分。
面接は、いきなり社長だった。
小さな会社だから、当たり前といえば当たり前か。
オフィスは空港近くの平屋の一角。
飛行機やロケットを設計するはずだった僕は、
飛行機の音が空に響く場所で、
地面を測る仕事の面接を受けていた。
人生とはそんなものかと、口元が少し緩む。
通された社長室には、ヨットの絵が飾ってあった。
白髪で、髭はないが、半ズボンにアロハにサンダル。
カリフォルニア風のカーネル・サンダースだ。
僕は密かに、彼をカーネルと呼ぶことにした。
カーネルは僕の簡単な経歴を聞くと、書類をぽんとデスクに置いて言った。
「明日から来れるか」
「はい」
話を聞いてから考えようと思っていたが、考えるより先に口が答えていた。
部屋を出て駐車場に向かうと、ちょうど飛行機の着陸音が空を覆った。
その音が心地よく聞こえた。
帰りの車の中では、お気に入りのジェイソン・ムラーズを口ずさんでいた。
だが、浮かれていられたのは、その日の夜までだった。
僕の学生ビザは、あと十ヶ月で効力を失う。
働き続けるにはワーキングビザが要る。
そして申請には、僕にとっては莫大な金額がかかる。
会社がスポンサーになってくれることが大前提だ。
結果を出して、会社と交渉して、手続きにかかる時間から逆算すると、
猶予は九十日。
あと九十日で、この会社に「こいつを雇い続けたい」と思わせなければならない。
昨日まで学生だった僕に突き付けられた、それが現実だった。
カレンダーに小さく印をつけた。
砂時計は、もうひっくり返っていた。
中はカリフォルニアのビーチと同じ、白くサラサラの砂で、
落ちるのが、速く感じられた。
電話くらい取らなくてどうする
翌朝、言われた通りに出社した。
オフィスは、天井の高い倉庫のような建物だった。仕切りの低いブースが並び、壁一面に大きな図面が貼られていた。みな、思い思いにブースを飾っていた。
入ったすぐ奥では、誰かが、いつ淹れたかわからないコーヒーポットから、
どす黒いコーヒーを注いでいた。
昔のルームメイトの淹れるLavazzaが、ふと恋しくなった。
カーネルが僕を連れて回り、一人ひとりに紹介してくれた。
出社している全員分の名前と握手。三人目あたりから、
名前は右から左に流れていった。
見知った顔もあった。
あのあごひげサンタは、個室を与えられたマネージャーだった。
バーで酔っぱらって奢りまくっていた男が、しかめ面で画面と向き合っている。ギターを弾く手が、マウスを握ったまま止まっていた。
そのバンドでドラムを叩いていた男もいた。
現場の測量担当だった。
なんのことはない、バンドの同窓会みたいな会社だった。
それでも、僕はホッとした。
僕の同僚も濃かった。
ヒッピーの代表格のようなイケメンさわやかイラストレーター。
メキシコ系のちょび髭ヒップホッパー。
二人は同年代で、すぐに意気投合した。
服装は自由で、僕も短パンにサンダル、Tシャツで働けた。
カリフォルニアだった。
ただ、アジア人は、僕一人だった。
与えられた席に座る。真新しい画面に、自分の名前のアカウント。
学生ではない自分が、そこにいた。
初日から、全力で取り組んだ。
ひとつだけ、うれしい発見があった。
現場から集まる地面のデータは、衛星と交信して座標と紐づけられている。
僕の仕事も、宇宙と繋がっていた。
画面に広がる無数の点が、銀河の星に見えた。
ただ、どうしても好きになれないものも一つあった。
電話だ。
対面なら、表情や身振りでなんとかなる。聞き返すこともできる。図面を指差すことだってできる。でも受話器の向こうには、声しかない。早口だし、耳が追い付かない。
小さい会社だから、外線は全部の席で鳴る。普段は出なくてもいい。でも僕は、五回鳴って誰も出なければ取る、と自分で決めていた。新入りで、外国人で、ビザを待つ身だ。電話くらい取らなくてどうする。四回目までは祈り、五回目で覚悟を決める。それが僕のルールだった。
「What's up」と気心の知れたクライアントなら、まだいい。問題は、発注元の大手の担当者や、せっかちな担当者だ。受話器の向こうから、舌打ちが聞こえてきそうだった。聞き返すたびに、空気が一度ずつ冷えていく。
ベルが鳴る。
一回、二回、三回。「出ろ、出ろ、出ろー」と心の中でけしかける。
四回。誰か出てくれ、と祈る。
祈りながら、カレンダーの印を思い出す。
九十日。
五回目。信仰心を捨てて、受話器を握る。
僕は目の前の仕事を、必死でこなした。分からないことがあれば、すぐに聞いた。そこにプライドの入る余地はない。今の僕には、分かったふりをしている時間がなかった。
みんな快く教えてくれた。
手を止めて、図面を広げて、時には僕のモニターの前まで来て。
製図チームが現場に出ることは、普段はないらしい。
でも僕は、早く仕事を覚えたくて、自分から頼んで帯同させてもらった。
ヘルメットを被り、ベストを着ると背筋が伸びた。
「似合っているじゃないか」
責任者は筋肉隆々の腕にびっしりタトゥーが入っていて、いつもサングラスをかけて目を光らせている。
見た目とは裏腹に、僕がメキシコ料理に目がないことを知ってからずっと優しくしてくれていた。
小さな会社の、いいところが詰まっていた。
ただ、聞いてまわるうちに、あることに気付いた。
自分の領域を一歩でも出ると、答えは決まって同じだった。
「それは俺の仕事じゃないから、分からないな」
悪気はない。冷たいわけでもない。
責任の範囲がはっきりしている、アメリカらしい割り切りだ。
測量の専門家がいて、図面の専門家がいて、計算の専門家がいる。
それぞれが、それぞれの持ち場を守っている。
塀の内側は完璧に。塀の外側は、知らない。
専門家は、いる。
ただ、繋ぐ人がいない。
僕は直感的に、もったいない、と思った。
小さいころから、僕は片付けが苦手だ。
そして頭の中も同じだ。
分類する。整理する。大事なのはわかっている。
でも、考え始めると頭が少し混乱する。
それよりも一緒にまとめて考えてしまうのが楽だった。
測量、図面、計算を分ける必要があるとは思えなかった。
コンピューターは僕の英語を笑わなかった
僕の仕事は、現場が集めた測量データや法律用語で書かれた土地の権利を集めて、図面上にプロットすることだった。
やってみて、すぐに気付いた。データの入力方法が、人によってバラバラなのだ。フォーマットも、名前の付け方も、保存場所も。
カリフォルニアの自由な気質と同じぐらい、
みんながみんな、自由に表現していた。
前工程の癖を、後工程で一つ一つ手作業で直していく。
製図チームの誰もそれを疑問に思っていない。
ずっとそうやってきたからだ。
英語では敵わない。電話では肩が跳ねる。
でも、これなら。
僕は仕事の合間に、全体の流れを紙に書き出してみた。
誰が、何を、どの形式で作り、誰に渡しているのか。
矢印だらけになった紙を俯瞰してみると、滞りは面白いほどはっきり見えた。みんなが「俺の仕事じゃない」と言う、塀と塀の間。
そこにデータが散乱して、製図チームが当たり前のように拾い集めていた。
データが生まれるのは、現場だ。
僕は現場責任者とブリトーを食べながら話をしてみた。
現場で入力するデータ形式を統一できないか。
彼は少し困った顔をした。
そんなことは、この世界で十年やっているが誰にも言われたことがないと。
「ただ、あの入力はめんどくさいんだよ」
「楽になるのか?」
なる。実はマニュアルも作ったし、入力端末にもインストールできるから、直感的に使える。僕はブリトーを飛ばしながら必死に説明した。
「お前は大学を出ている。それだけでリスペクトだ」
「ブリトーも好きだしな」
そう言って彼は頷いた。
僕は一緒に現場に出て、やって見せた。
「今まで一から手で打っていたのが、馬鹿らしくなるな」
と彼は豪快に笑った。
英語が通じることより、何倍も嬉しかった。
データが綺麗になると、できることが劇的に増える予感がした。
インターネットで調べながら、簡単なプログラムを書き始めた。
統一されたデータをチェックして揃え、種別ごとに線でつなぐものだ。
名付けて「AutoDraw」。
安直だ。だができたら革命だ。多分。
プログラミングは専門外だったが、幸い、コンピューターは僕の書く英語を笑わなかった。間違えれば、冷徹にエラーを返してくるが、それは真っ赤に染まったライティングの課題で慣れていた。
機械が相手な分、気が楽だ。
直せばいい。何度でも。
夜、アパートに帰ってからも考え続けた。
アイデアを書き留め、次の日、また次の日と改善を重ねた。
気付けば、電話のベルにびくびくしていた時間が、コードのことを考える時間に置き換わっていた。
動いた瞬間のことは、今でも覚えている。画面の中で、手作業なら一日かけていた処理が、数秒で終わった。僕は思わず周りを見回した。誰も見ていなかった。少し残念だったが、革命とはそういうものらしい。多分。
改良を重ねると、二週間かかっていた仕事が、三日で終わるようになった。
最初に気付いたのは、あごひげサンタだ。
僕が図面を引くと彼に提出することになっていたからだ。
「どうなっている? これ昨日の現場データだろ? 早すぎないか?」と、
矢継ぎ早に質問しながら、僕のモニターを覗き込んできた。
同僚たちも、なんだなんだと席の周りに集まってきた。
しばらくして、社長に呼ばれた。
ヨットの部屋だ。
部屋に入ると、カーネルは椅子の背にもたれたまま、単刀直入に聞いてきた。今日も、アロハだった。
「何が起こったんだ?」
目は笑っていた。
僕は自分のノートパソコンを持ち込んで、目の前でプログラムを走らせた。
バラバラのデータが、線でつながり、みるみる整列していき、建物と土地の形が浮かび上がった。
僕にはそれが、星座にも見えた。
宇宙は自分で見つければいい。
拙い英語で、身振り手振りで、必死に仕組みを説明した。電話とは違い、不思議と言葉は出てきた。画面が、僕の代わりに喋ってくれていたからだと思う。
カーネルはしばらく画面を眺めて、それから僕を見た。
「すごいな」
その場で、給料が30%上がった。
そして、こう言ってくれた。
「俺に何かできることはないか?」
ビザのスポンサーの件をまくし立てた。
部屋を出た後、僕はトイレの個室で一人、声を殺してガッツポーズをした。
家までの帰り道、車の中で気付いた。
僕は英語力で評価されたのではなかった。
あれだけ死ぬほど勉強して、夢にまで出てきた英語は、面接の日から一度も褒められていない。
むしろ、英語から逃げた先で拾ったもので、評価された。
英語以外の武器を作らないと、この国では生き残れない。
言い換えれば、武器さえあれば、英語が拙くても、席は用意される。
カレンダーの印は、まだ過ぎていなかった。僕は初めて、印の先の日付を、少しだけ楽しみに思えた。
評価とクビは同じテーブルで決まる
その頃の会社は大手企業との契約が決まったばかりで、
人手が足りず、どんどん人を雇っていた。
僕の作ったAutoDrawをもってしても捌くのが大変だった。
ある日、僕よりかなり年上の男性が入ってきた。僕は彼の教育係のようなものになった。数ヶ月前まで「明日から来れるか」と言われていた側の僕が、である。人生は、どこで立場が入れ替わるか分からない。
ただ、彼は覚えが悪かった。
何回教えても、メモを取らない。同じところで、同じように間違える。
正直に言えば、やる気も感じられなかった。
若造に、英語の拙いアジア人に教わることなどない。
言葉の端々から、そう言われている気もした。
それでも僕は根気よく教え続けようとした。ほんの少し前の自分が、みんなに教えてもらっていたからだ。手を止めて、図面を広げて、モニターの前まで来て。あの借りを、僕は彼に返しているつもりだった。
三ヶ月ほど経った、ある日のことだった。
朝、いつも通り彼に挨拶をして、仕事を始めた。昼はいつも通り、外へ食べに行った。サルサのきいたカリフォルニアブリトーが売りの店だ。両手で抱えてかぶりつく。いい昼だった。
戻ると、彼が席にいなかった。
彼のブースは、僕の真後ろだ。進捗を確認しようと覗き込んでも、いない。会議室にも、休憩室にもいない。不思議に思っていると、上司に呼ばれた。
「彼はクビにしたよ」
え?
聞けば、ちょうど今朝、カーネルとマネージャーたちのミーティングで決まったらしい。あのあごひげも、その部屋にいたのだろうか。僕が彼と挨拶を交わした、あの後に。
彼のブースには、荷物がそのまま残っていた。マグカップも、家族の写真も。決定したら、コンピューターには一切触らせない。だから、とりあえず本人だけ外に出す。荷物は、後から郵送するそうだ。
「君のプログラムもあるしね」
僕はお昼に食べたブリトーの味を、もう一度飲み込んだ。
その日の午後、真後ろのブースは、ずっと静かだった。振り返っても、誰もいない。まるで最初からいなかったかのように、いつも通りの電話とキーボードの音だけが静かに響いていた。
マグカップだけが、置いていかれた朝の続きを待っていた。
それもいつの間にか総務の人が来て、乱暴に段ボールに詰め込んでいった。
30%の昇給とビザの約束は、確かに嬉しかった。でも、それは「守られる」という意味ではなかったのだと、空っぽのブースが教えてくれた。
評価とクビは、同じテーブルの上で決まる。
同じ部屋で。
もしかしたら、同じ口調で。
あとで「90-Day Review」という言葉を知った。
僕が勝手に引いたカレンダーの印は、実はこの国の残酷なシステムそのものだったのだ。
今朝の彼と、九十日前の僕の間に、線なんて引かれていない。
そこにバンドのつながりが入る余地もない。
そんな不安を見透かすように、電話のベルが鳴った。
肩は跳ねた。僕は、二回目で受話器を取った。
小切手の重さ
ビザの申請には、カーネルも一緒に来てくれた。
弁護士事務所の応接室。難しい書類の説明が続く中、申請料の話になった。八千ドル。読み上げられた金額に、僕は背中に汗をかきながら
そっとカーネルの方を下からのぞいた。
カーネルは胸ポケットから小切手帳を出すと、その場で、さらっと書いた。
さらっと、である。
僕が新聞配達の奨学金で買った、ボロボロのアメ車より高い金額を、アロハの男は、家賃を払うかのように書いた。
駐車場に戻ると、当時まだ珍しかったレクサスの隣で、カーネルが
手を差し出してきた。
「これからも頼むよ」
その手の大きさと力強さに僕は圧倒されながら、お礼を伝えた。
この小切手の重さを、忘れないでいようと思った。
そして数ヶ月後、ビザは承認された。
間に合った。
カレンダーの印を、そっと消した。
砂時計も消えていた。
でも、あの空っぽのブースを知ってしまった僕は、もう知っていた。
砂時計は消えたのではない。ただ、見えなくなっただけだ。
この国で働くすべての人の机の上で、音もなく落ち続けている。
だから僕は、次の武器を探し始めた。
英語の向こう側
あれから随分経った。
今は日本で、英語や留学に関わる仕事をしている。
「どうやったら英語力が伸びますか」と聞かれることも多い。
もちろん、真剣に答える。死ぬほど勉強した身として。
といっても、伝えられるのは心構えぐらいだけれど。
でも、心の中では、あの空っぽのブースとヨットの部屋を思い出す。
僕が最初にもらった評価は、発音でも、語彙力でも、TOEFLの点数でもなかった。
バラバラなものを眺めて、もったいない、と思ったこと。
繋ぐ人がいないなら、自分が繋いでみようとしたこと。
僕の中で、英語は「武器」から「乗り物」に書き換わった。
英語力より先に評価されたもの。
それは多分、英語の向こう側を見ようとする目だった。
今でも、それだけは伝え続けたいと思っている。
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