雨がやんだら、また会いましょう
第12話 雨がやんだら、また会いましょう
雨は夜明け前にやんでいた。
紬が窓を開けると、濡れた手すりに朝の光が並んでいた。鏡には、昨日と変わらない五十歳の自分が映る。目元の皺も、少し疲れた頬もある。それでも、その顔を以前ほど遠くには感じなかった。
朝食を終え、鞄を持ったところで、スマートフォンが震えた。
修一からだった。
口座と保険の一覧をまとめました。
来週、家のことも含めて話したいです。
離婚届は、その話のあとで考えさせてください。
逃げるつもりはありません。
紬はしばらく画面を見つめた。
現実は、雨がやんだからといって片づかない。修一は傷つき、迷い、今も結婚を終わらせる決意の途中にいる。紬もまた、何度か揺れるだろう。
来週、話しましょう。
資料をまとめてくれて、ありがとう。
送信したあと、紬は食器棚の奥の箱を開けた。修一の茶碗は、布に包まれたまま入っている。捨てるつもりはなかった。二十六年を捨てることと、そこから出ることは違う。
紬は茶碗を箱へ戻し、隣に置いていた夫婦の写真だけを別の封筒へ移した。いつか見返すかもしれない。見返さないかもしれない。それも今は決めなくてよかった。
胸には小さな痛みが残った。けれど、その痛みから目を逸らさずに玄関を出た。
図書館へ向かうには少し早かった。
紬は駅前の喫茶店「雨音」へ歩いた。扉を開けると、佳代がカウンターの奥から顔を上げた。
「朝にいらっしゃるのは、初めてですね」
「少し、寄りたくなって」
「雨がやんだから?」
紬は窓の外を見た。
「やんだあとにも、来てみたくなりました」
佳代は窓際の席へコーヒーを運んだ。
「今日は、待っている顔ではありませんね」
紬はカップに手を添えた。
確かに、三十年前のように誰かの言葉を待つために座っているのではなかった。誠一郎と会う約束はしている。それでも、彼が来る前から、紬は自分の意思でここにいる。
扉のベルが鳴った。
誠一郎が入ってきた。紬を見つけると、肩の力を抜くように笑った。
「おはようございます」
「おはようございます」
向かいに座った誠一郎は、少し眠そうだった。
「眠れましたか」
「少しだけ。紬さんは?」
「怖くなって、早く目が覚めました」
「俺もです」
二人は笑った。
紬は、修一から連絡があったことを話した。話し合いはまだ続き、離婚届もすぐには出せないこと。
「待てます、と言うだけではだめなんですよね」
誠一郎が言った。
「ええ。私だけに決めさせないでください」
「では、俺は俺の生活を進めます。美咲と来月また会います。由紀にも、必要な時には自分から話します」
「私も、修一さんとの時間を雑に終わらせません」
誠一郎は頷いた。
「そのうえで、会い続けたい」
「私も」
すぐに一緒に暮らすことも、再婚の時期も決めなかった。二人の未来を確定する大きな約束ではなく、次に会う日を互いに決めた。
来週の土曜日。晴れても雨でも、午後三時にこの店で。
「仕事で遅れそうな時は?」
紬が尋ねると、誠一郎は答えた。
「遅れる前に連絡します」
「会えない時は?」
「会えないと言います。元気で、とは言いません」
紬は笑った。三十年前の言葉を、ようやく二人で笑える場所まで来ていた。
それは小さな約束だった。だからこそ、守れる気がした。
佳代が水を注ぎながら窓の外を見た。
「今日は晴れそうですね」
雲の切れ間から光が差し、ガラスに残った雨粒を照らしていた。
店を出ると、歩道にはまだ水たまりが残っていた。誠一郎は図書館まで遠回りして歩きたいと言った。
二人は並んで歩いた。肩は触れず、手もつながなかった。それでも、沈黙の中に言えなかった言葉は残っていなかった。
以前、雨の中で抱きしめ合った横断歩道の前で信号が赤になった。
紬は水たまりに映る空を見た。あの夜、自分から傘を下ろし、待つのはもう嫌だと言った。
信号が青へ変わる。
紬は誠一郎を見た。
「雨がやんだら、また会いましょう」
初めて再会した日の別れ際には、約束なのか逃げ道なのか、自分でもわからなかった言葉だった。
誠一郎は微笑んだ。
「雨が降っても、会いましょう」
「そうですね」
図書館の前に着くと、紬のスマートフォンがもう一度震えた。修一から、来週の候補日が二つ届いていた。
紬は立ち止まり、予定表を開いた。誠一郎は答えをのぞき込まず、少し離れたところで待った。
紬は自分の都合を確認し、一つの日を選んで修一へ返信した。
それから顔を上げる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
紬は自動ドアへ向かった。
雨はもうやんでいた。けれど、道にはその名残があり、足元の光を揺らしている。
紬はそれを避けずに、一歩ずつ図書館の中へ入った。
カウンターの向こうで、真帆が窓の外を見ていた。
「雨、やみましたね」
「うん」
紬は鞄から利用者に渡す予約本を取り出し、いつもの場所へ立った。
物語は、晴れた日の側で続いていく。
(終)
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