【掌編】声を出さずに僕は泣いた (撮影動画付き)
敬愛する冬至ハクさんの作品から
インスピレーションをいただき、掌編にしました。
改めて、冬至ハクさん、いつも素敵な作品を、
ありがとうございます。
紗帆が、海に行きたいという。
幸い、大学が早い夏休みに入ったから、
毎日病室じゃつまらないだろうと、
翌日の夜明け前に、一緒に海に行く約束をした。
「海!海!」
紗帆は生まれながらに見えない目を輝かせて、
ベッドから両手を伸ばし、ボクの顔をそっと挟んだ。
「おにいちゃん、不精髭?」
「うん。」
「ちくちく!」
紗帆が嬉しそうに笑った。
僕も紗帆もクーラーがあまり好きじゃないから、
まだ暑くなる前の早朝、窓を開けて海沿いを走った。
「海の匂い!」
「うん。」
「あのね、朝早くと、昼と、夕方と、夜と、
海の匂いはぜんぶ違うよ。」
「へえ、そうなんだ。」
「朝早くは、セロリのような匂い。」
「セロリ~?」
「うん。すぅーとする匂い。」
12年間、暗闇で生きてきた紗帆の鼻と耳は、
歳の離れた兄の常識をあっけらかんと覆す。
「いのちが萌えだす匂い。」
その言葉に、僕は心が、クッっと、詰まった。

灯台に着いたとき、柔らかな陽が昇りかけた。
僕の手を握りながら、紗帆は渚を歩く。
寄せ返す波のリズムに合わせて、
踊るように紗帆は歩く。
「波が引く時にね。」
「うん、」
「砂浜が、はぁーっとため息をつくよ。」
「ため息?」
「気持ちよさそうな、ため息。」
そう笑ってしゃがんだ紗帆の素足を薄い波が洗う。
波が引く時に、ほら、と僕に笑顔を向けた。
微かに、「砂のため息」が聞こえたような気がした。
灯台の下は平らな岩場になっている。
岩場に手をついた紗帆がフジツボで指を切った。
真っ白な人差し指の腹に染み出した鮮やかな紅い雫。
僕は思わずその指を口に含んだ。朝の海の味がした。
「だいじょうぶ、痛くないよ。」
紗帆の、ちょっと恥ずかしいような笑顔に、
僕は、この儚げな妹の運命を呪った。
神様、どうかこの血を全部、僕の血と取り換えてください。
少し潮が満ちてきた。
岩の端で勢いを失った波が、穏やかな海水となって
乾いていたフジツボの上にひたひたと覆い始めた。
小さなカニがフジツボの間を縫うように歩いている。
「あ、何かが歩いてる音がする。」
「小さなカニだ!ヒライソガニかな。」
「カニさん!かわいい!」
今まで岩の彫刻の一部だったフジツボたちは、
水に浸ると、その中心から何かが出てきて動き出した。
静物が、生物になった。
僕はフジツボたちの奇妙な動きにくぎ付けになった。
フジツボたちに首を傾けていた紗帆が突然つぶやいた。
「フジツボさんたちが、おしゃべりしてる。」
「え?」
「プチプチ、ピチピチ。楽しそう。」
紗帆は嬉しそうに微笑んだ。
僕は耳をフジツボに近づけて、意識を集中した。
波の音や風の音、遠くの船の音の中に混じって、
確かに、ごく小さな「プチッ、ピチッ、」という音がした。

「おにいちゃん。海に連れてきてくれてありがとう。」
「しんどくないか?」
「ううん、すごく気持ちが楽になったよ。」
僕の方を向いた紗帆の笑顔に屈託は無かった。
「死んだらね、一人きりかと思って少し寂しかった。
でも、カニさんやフジツボさんも生きてるから、
生きているといずれ死ぬのだから、
死んだら、カニさんやフジツボさんに会えるんだ、
そう思ったら、寂しくなくなった。
なんだか、楽しみになったよ。」
そういうと、紗帆は笑顔で正面の海を見つめた。
僕は、声を出さずに泣いた。
ショートボブの髪を潮風になびかせる紗帆の、
白く美しい横顔も、見つめる朝の海も、
どこまでも透明に輝いていた。
< 了 >
お読みいただき、ありがとうございました!
参考までにフジツボのおしゃべりのショート動画です。
集音マイクでも微かにしか聞こえません。お許しください。
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